古本の値段

村上春樹の本『国境の南、太陽の西』が家に2冊あったので、1冊をブック・オフに持って行った。買い取り価格は10円(定価は、1572円)
次の日、そのブック・オフの棚を見たら、その本が200円で売られていた。(アマゾンの古本で見たら、この本は1円、送料が257円かかるので、アマゾンで買うと258円。ブック・オフの方が、少し安い)
買い取り価格の20倍の売価。別の言い方をすれば売値の5%の買い取り価格。他の本も大体このようなものであろう。一般化すれば、売値の20分の1(5%)で、本を引き取ってくれる。
ただ、売値に買い取り価格が対応しているのかどうかわからない(マンガ『アキラ』は5円で引き取られ、650円で売られていた)。ブック・オフの場合、10円で引き取り、100倍の1000円で売る場合もあるような気がする(逆に言えば、1000円の売値の本も、買い取り額は10円の場合もある。)

いずれにしろ、古本の値段は、売るとなると限りなくゼロに近い。お金というよりは、この本が廃棄されるのではなく、古本屋を介して、誰かの手に渡り読まれるのを喜びと考えた方がよい。

昔好きで何度も読み返した本・多田道太郎『管理社会の影』(日本ブリタニカ、1979年)が、アマゾンの古本で検索すると1円で売られていた。持っている本であるが、もう一冊ほしくなり注文する(アマゾンの場合、ワン・クリックで本が購入できるので本当に便利)
こんな素晴らしい本が、1円で買えるなんで、うれしいが、複雑な思い。

  大学の教養教育にできること

「かって大学生がそれとして判別できる「型」を有していた時代があった。たとえば、男子学生は、詰め襟の学生服を着て、ハードカバーの本を小脇に抱え、電車の中では座らないといったスタイルを共有し、それが大学生としての身分を表す象徴であった。(中略)しかし、今は誰が誰だか判別できない」(大森「東大生になることの意味」『東京大学は変わる』東京大学出版会、2000年、18ページ)

この文章を読んで、大学生はエリートで、大学生としての自負を皆持っていた、あるいは、「大学生としての自負を持ちなさい」と教員が学生に諭すことができた時代があったことを思い出した。
 今は同年代の60%近くが大学・短大に進学する時代で、大学生はエリートではないし(それは東大生といえども同じこと)、心情や行動、そして服装も、勤労青年と変わらない。それは、鼻持ちならないエリート意識がなくていいということであるが、同時に「型」も「自負」も「気取り」もない平凡な大衆になってしまったということである。
 電車やバスの優先席に座ろうが、授業中に私語をしようが、スマホを弄ろうが、アイドルにうつつを抜かそうが、それは大学生として恥ずべきことではない、と考えている。
 大学の教養教育が、このような現代の大学生に対して、何ができるのか、上記の本(『東京大学は変わる』)を読んで少し考えてみたい。

年末のペット

年末、年始は、バタバタしていて、ペット(犬)のことはほったらかしになる。
朝夕、5分ほどの散歩と餌を与えて、後は構うことはない。犬は諦め顔で、一日中、自分の寝床で寝ている。
今日は、その罪滅ぼしに、ソフィー(犬)を、車で10分ほどの稲毛海浜公園に連れて行った。冬にしてはあたたかい日和で、海も穏やか。ソフィーも、久しぶりの広々した砂浜や公園で生き生き。
家に帰ってきてから、風呂場で洗濯(いやシャンプー)もして、お正月に備えた。

研究者に求められること

研究者に必要なことに関して、思ったことを、書き留めて置きたい(自己反省を含めて)。
① 一つは、グローバルな視点(比較の視点)をもつこと。具体的には、海外の動向にも敏感であること。そして海外の研究動向に常に目を配り、最新の研究動向を押さえておくこと。
② もう一つは、日本の現場の現実を、確実に把握し、感受性豊かな鋭い視点と実証的なデータで押さえ問題点を的確に掴むこと。

 この2つが、車の両輪のように噛み合い、論を展開したり、政策提言をすることが、研究者に求められることであろう。
 このような、グローバルな視点(比較の視点)と現実感覚の視点が、研究者に求められるのは、いつの時代も変わりないであろう。

藤原新也のオフ会(不参加記)

藤原新也が、会員制のサイトの会員に呼びかけて忘年会(オフ会)を開いた(12月26日)。よほどそれに申し込み、参加しようと思ったが、思いとどまった。
思いととどまった理由は、いくつかある。
① 最近千葉に籠りきりで、東京(忘年会の場所は大久保)に出て行くのが億劫。
② 藤原シンパの人ばかりとはいえ、30人の見知らぬ人と話すのは億劫。
③ 自分のスタンス(職業他)をどのように打ち出せばいいのか不明。
④ 参加写真が公開されると思うが、それへの覚悟が必要。
以上のことが主な理由だが、それ以外に、次のようなことを思った。

私は藤原新也の書かれたものに惹かれ、ファンの一人であるが、藤原新也と個人的に知り合いになりたいわけではない.また氏の素顔を知りたいわけではない。「藤原新也」を演じている藤原新也を見たいだけである。それには、藤原新也の素顔が多少なりとも出てしまうく忘年会(オフ会)に参加するのは、あまり得策ではない。「藤原新也」が演じられる講演会を聞きに行った方がいいであろう。
 
昔、多田道太郎が、人がアイドル(ヒロイン)に惹かれるのは、アイドルの素顔(実像)ではなく、そのアイドルを通して、自分の理想のイメージ(虚像)を追い求めているである。自分の前に実像が現れたら、「それは違う」と言ってしまう、というようなことを書いていたように記憶する(『管理社会の影」』)。*
これとも少し違うが、要するに素顔を知りたいわけではない。社会的な姿をみたいだけである。知り合いが学会発表や講演をする姿をみたい、というのに近い。

26日に開かれたオフ会の様子を、藤原新也は、参加者の写真入りで報告している(CATWALK、12月27日)。それを見ると、藤原新也に表裏がなく(つまり実像も虚像の落差がなく―それが魅力なのであろう)、参加者は、旧来の友達のように打ち解けていて、私の心配は、杞憂だったようだ。

*「恋愛についていえば、それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢を見ることである。(中略)もし、ほんとうのオリジナルである女優が彼の前に現れれば、彼は「それは違う」といわざるをえまい」(多田道太郎『定本管理社会の影』ブリタニカ、1979年、21ページ)