秋の稲毛海浜公園

ソフィーの散歩に、稲毛海浜公園に行く。同じ犬種のキャバリア犬(3歳)に挨拶。
菊の季節、丹精を込めて作られた菊を鑑賞。

菊の美―犠牲の上の美

菊に関しては、以前にも書いたが、少し複雑な思い。
このような究極の美のような菊の成長の陰には、成長の途中で摘み取られた多くの菊のつぼみがある。

少し飛躍し過ぎかもしれないが、宮崎駿の「風たちぬ」の主人公二郎の作る飛行機の美の陰には、多くの犠牲がある。犠牲があるから美しいと考えるのか、そのような犠牲に上に打ち立てられた美は疎ましいと考えるのか、複雑な思い。(ネットからの転載)
http://blog.goo.ne.jp/sombrerorecords/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

<「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。
才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。( 横岩良太)>

昔と今の混同

昨日(2日)、昔住んでいた団地の近くを車で通り、懐かしさを感じた。そこには昔、一緒に子どもを一緒に遊ばせた近所の人やテニスを一緒にやった仲間などがまだ多く住んでいることであろう。
でも、そこから出て行った人間が、そこに顔を出すわけにはいかない。(会ったら、お互いにどのような態度で接すればいいのかわからない。)

昔勤めた大学も同じことで、その近くを通ると、懐かしさを感じる。勤めていた頃のいろいろな出来事が走馬灯のように思い浮かぶ。でも、そこに顔を出すわけにはいかない。
辞めた人間が、まだそこに顔を出せば、戸惑いや居心地の悪さを、本人も周囲も感じるのではないか。
昔の職場に顔を出せば、昔の役職や関係があるので、かっての同僚や後輩からは丁寧に応対されるかもしれないが、実のところ疎まれているというケースはよくある。

私達は、制度や組織の中で生きている。制度や組織を離れた人間は、昔を懐かしむのはいいが、そこに入って、昔と今の混同を起こし、戸惑ったり、疎まれたりしてはいけない。