今日は、何かを感じて、しょぼんとしているうちの犬(ソフィー)を連れて、元気づけようと稲毛海浜公園に行った(車で15分)。
天気がよく、海もきれいで、うれしそうに砂浜を駆けまわっていた。
しかし、今日は月曜日の為、稲毛海浜公園にある「花の美術館」はお休みで、公園の庭のコスモスなど秋の花は、垣根越しに遠目にしか見ることができなかった。
月: 2014年9月
ペット・ロス(の心配)
今から6年半ほど前(桜の季節)、妻は稲毛海浜公園に犬の散歩に行った折、うちの犬と同じ犬種(キャバリア)の1匹の犬が、公園に捨てられ、さ迷っているのを見た。家に帰ってきてからもその犬のことが気になり、再びそこに見に行った。捨て犬は、数日は野晒らしに置かれたようで、黒ずんで元気なさげで、放浪していたという。妻は、うちと同じ犬種ということもあり、見捨てることが出来ず、車に乗せ連れ帰った。まず、犬の病院に連れて行き、そこで、検査と診察、治療とシャンプーをしてもらった。(2泊3日で費用は、うちの犬の買値より高かかった)。
かわいそうで、うちの犬と一緒に飼うしかないと思ったようだ。ところが、家で一緒に置くと、うちの犬が拗ねて、元気をなくし始めた。それを見た妻は、「半日でも家に置くと、情が移り捨てられなくなる。すぐ保健所に連れて行く」と言い出した。
次女がちょうど帰ってきて、それを聞き、あわてて近所の家に「捨て犬を飼ってくれないか」と頼みに走った。
隣の家では動物好きの人だが、「子犬と猫がいて無理」と言われた。向かいの家の人(最近犬をフィラリアで亡くしている)が、「飼ってもいい」と一度言ってくれたが、「その犬もフィラリアに罹っている」と伝えたら、「それでは無理」と断られた。
斜め前のTさんの家が最後の頼みで聞きに行ったら、「猫が3匹ほどいるけど、ボス猫が認めたら飼ってもいい」と言ってくれた。そこで「お試し宿泊」となり、ひとまず命は救われた。1週間ほどで、無事ボス猫の許可も出て、その家で飼ってくれることになった。
うちでは感謝し、「何かあればうちで面倒を見ますから」ということで、病院での定期検査や薬の投与(狂犬病、3種混合、フィラリナの薬)、病気の時の通院、毛のカット、シャンプー(これは、1か月に1~2回、私が家の風呂場でやった)、犬の餌(キャベツ、ニンジン、サツマイモ、鶏肉の煮込みのようなものを週2回は作り届けた)、それに、Tさんが泊まり込みで出かけるような時は、うちで預かった。
そのキャバリは、見つかった季節が春だったので、「サクラ」と名付けられ、可愛いがられて来た。なぜ、捨てられたのかわからないが、前の飼い主にしつけもよくされた素直な犬で、最初は捨てられて情けない顔をしていたが、段々穏やかな顔つきになっていった。(後の写真で、「サクラ」は向かって右。2年前の様子)
Tさんの可愛がりのおかげであろう。それから6年半の年月が過ぎた。
そのサクラがこの1カ月、急速に衰え、今朝、息を引き取った。
拾った時の年齢が不詳なので、それから6年半たち、何歳だったのかわからないが、きっと犬の寿命だったのあろう。ペットの葬儀場で,葬儀をあげ、火葬して,可愛い箱に入れてもらい、帰宅した。
可愛がってくれたTさんと家族の方(Tさんと二人の息子さん)、うちの妻と娘たちと私、それに近所の人に、ペットロスの症状が出るのは必然であろう。
「サクラよ、安らかに眠れ!」
雑草の中の花
選択ということ
何かを選択するということは、何かを選択しないということになる。場合によっては、選択しないものを隠すことになる。また、あること大きく取り上げることは、別のことを小さく見せることになる。
(大学の講義でも、そのことは当てはまるので、後期の授業を前にして、心しておこう。)
マスコミが何か何かを大きく取り上げるということは、そのことの重大さを国民に提示し、別のことは大したことではないという判断を国民に提示(=押しつけ)していることである。したがって、何を大きく取り上げるかのマスコミの判断は、事態を正確に伝えるということと同じくらい重要である。
今のマスコミ人に、何を選択するかの厳しい自覚がるののであろうか。また立場にとらわれない公平な見地からの報道をしているのであろうか。
「マスゴミ」(枝葉末節のくだらないことに血道を上げているマスコミ)(藤原新也の言葉)というものが存在するような気がする。
自社のトップの意向やイデオロギーや自社の利益だけを考えたニュースや記事の選択をするマスコミ人は、マスコミ魂を失った人ということになる。政治家に転身した方がよい。
藤原新也は、最近の公開の shinya talk で、相変わらず、鋭いことを言っている。
http://www.fujiwarashinya.com/talk/
それにしても、吉田調書で明らかになったように、吉田所長の判断で、「関東圏を含む東日本一帯が壊滅」するという事態が避けられたのは、感謝しなければならい。