卒業おめでとう

敬愛大学の卒業式は、大学のアリーナで、例年通り行われた。卒業おめでとう。
卒業証書は、ゼミごとに配布するとのことで、全体の卒業式の後、ゼミ生が集まった。今年の私のゼミは男ばかり6人なので、少し殺風景。隣のゼミから一人女子学生に来てもらい、花を添えてもらった。
いい若者ばかりで、これからの人生が楽しみ。ほとんどが4月から小学校の教壇に立つ。
卒業パーティーは、海浜幕張にあるホテルマンハッタンで。パーティーの企画は下級生が全部上手に取り仕切っていた。お祝いの挨拶の他、歌や抽選会があり、楽しい会であった。
ゼミ生から、寄せ書きをした一升瓶をもらう。

ブログを書けない

放送大学でご一緒している先生から、「最近ブログを更新していませんね」と言われた。
高名な先生が、私のブログを時々見てくださっているとは、光栄である。しかも、その先生に無駄足を踏ませてしまって、申し訳ない気持ちで一杯である。

何も書けないのは、学年末の忙しさが続いていることと、変わり映えのない日常生活が続いているせいである。犬の散歩は欠かせないが、庭の雑草取りは怠っている。
今日は、これから、敬愛大学の卒業式。卒業生の門出を祝い、若さあふれる写真を撮ってこよう。

教育社会学の特質 (8日の話の原稿の一部)

 教育社会学のその特質を、簡単に言いますと、第1に客観性、第2に実証性、第3に脱イデオロギー(傍観者性)の3つあったように思います。当時の教育学が、主観的で、思弁的(哲学的)で、イデオロギー的であったことへの反動で、教育社会学はそのような特質を強調することで、自分たちの存在をアッピールしていったように思います。
教育のことを考えるとき、「こうあるべき」という理想や規範から考えるのではなく。「こうある」という現実から考えるという客観性や、どのような原因―結果の因果関係にあるのか、きちんとした自然科学に近い手続きで実証するという実証性や、運動や実践からは一歩距離を置くという脱イデオロギー性(傍観性)が、教育社会学の特質だと思います。
近年、この教育社会学の特質は、学問の確立とともに、薄れてきて、理想や規範の重視、主観性や感情の重視、政策提言や運動論への傾斜など、伝統的な教育学と変わらなくなってきていているようにも見えます。
昔、文部省と日教組の対立があった時代は、教育学は日教組より、教育社会学は文部省寄りの御用学問と揶揄されていましたが、今、最も政府の教育方針を批判しているのは、教育社会学の研究者になっています。これは、教育社会学の学問的特質は変わらないのに、世の教育風潮の方が、変わってきていると、教育社会学の研究者は考えています。
子どもや青年、そして学校のことを考えると時、その時の集団や制度や文化的なものがどうあるということが、子ども、青年、学校に大きな影響を及ぼしますので、集団や組織や制度や文化を扱う、社会学的視点は、とても重要になると思います。学校制度などは、政府の考えで、人為的に簡単に変えられるものですが、その制度変更が、日本全体に行き渡り、子どもたちや時の教育に大きな影響を及ぼします。また、教育の実際の過程は、教育制度、組織、集団のあり方と人の意識や心理や行動との相互作用によって進行していくように思います。そのダイナミズムを解明するのは教育社会学です

放送大学文京学習センター 客員教授 退任講義

本日(8日)は、放送大学文京学習センターの客員教授の退任講義というものがあり、多くの方が聞きに来てくれた。素敵な花束を自主ゼミの方と放送大学の職員の方からいただいた。心より感謝したい。
講義の方は、私としては、準備し過ぎて(珍しく原稿を書いていった)、熱を込められず、淡々とした話終わってしまい、成功だったとは言えない。 原稿なしの、その場のアドリブで、ハラハラして話した方がよかったのかもしれない。
でも、無事終わり、ほっとしている。。懇親会まで開いてくれた自主ゼミの方に、感謝。花束を、自主ゼミメンバーと放送大学からいただき、家の中が華やいでいる。 配布したレジメの一部掲載。

(放送大学・文京学習センター」退任講義  (2014年3月8日 14時~15時30分)

現代の子ども、若者、教育について―教育社会学的考察― 

 1 私の放送大学とのかかわり  (放送大学の教育の特質は何かを考える)
 ①文京学習センター客員教授ーセンター会議 面接授業、面接授業講師の紹介、自主ゼミ、
 ②番組制作ー テレビ番組「子ども・青年の生活と発達」(藤崎春代との共同2006)
        ラジオ番組「子ども・若者の文化と教育」(岩田弘三との共同2011)
 ③面接授業ー 千葉学習センター、文京学習センター
 ④卒論指導、修論指導、自主ゼミ
2 私のその他の大学とのかかわり
 ①東京大学(助手)②武蔵大学(専任講師、助教授、教授)、③上智大学(教授) 
 ④敬愛大学 (特任教授) ⑤非常勤―ICU, 明治学院、東京成徳大学、神田外語、大阪大学、九州大学
 ⑥在外研究―Wisconsin 大学
3大学教師と学生との関係
 東京大学ー恩師―大学の教育の影響大 知識の伝達者、媒介者、先導者―弟子も後輩もライバル
 武蔵大学ー教員も学生もおっとり、心優しき学生、大学レジャーランド(武蔵太郎君の一日)丁寧な教育
 上智大学ー都心のおしゃれな大学、高偏差値、真面目で、頭のいい、スマートな学生、「上智花子さんに一日」(バブル期) クールな教師―学生関係、
 敬愛大学ー地元(千葉県)出身者がほとんど、資格志向, 地味な学生
4 教育社会学について
 (学部時代の専攻のディスプリンが、学生の白紙の柔らかい心に、烙印される。)
1 社会的事実(もの)として教育をみる、制度、集団に注目―人間的な要素希薄?
2 教育社会学の特質  
(当時の教育学は、主観的で、思弁的(哲学的)、イデオロギー的―それへの反発)
 ①理想や規範から考えるのではなく、現実から考える 「客観性」
 ②自然科学的に、原因―結果の因果関係を検証する  「実証性」
 ③運動や実践からは一歩距離を置く 「脱イデオロギー性―」。
(近年、この教育社会学の特質は薄れ、理想や規範の重視、主観性や感情の重視、
政策提言や運動論への傾斜など、伝統的な教育学と変わらなくなってきている。)
3 学問としての一貫性の保持
昔、教育社会学は文部省寄りの御用学問と揶揄され、今は、政府の教育方針へのラジカルな批判的者となっている。教育社会学の学問的性格は一貫して変わらず、状況変化していると教育社会学者は考えている。
4 教育における社会的なもの(制度、組織、集団)の重要性
時代の集団や制度や文化的なものがどうあるということが、子ども、青年、学校に大きな影響を及ぼす。その制度をどのようにするべきかを、実態から考え、改革がどのような結果を生むかを予測することも大事。教育政策の決定に教育社会学者も参画している。また、教育過程は制度的なものと個人の心理的なもの相互作用で進行する。
5 学生文化の変容
1 対抗文化→大学レジャーランド→バブル期の学生文化→不況期の学生文化
2「武蔵太郎君の一日」(大学レジャーランド時代の学生)とその評価
3 大学生の生徒化―素直、受動的、勉強志向、実利的、安定志向、内向き、依存的
4 生徒化の社会的、教育的背景―18歳人口の減少、大学進学率の上昇、
   入試形態の変化、学力的低下、経済不況、教育重視の大学改革
5 大学教育と学生の生徒化
6 学生の「生徒化」を示すデータ -大学生活の重点、大学満足度、読書時間
7 学生の社会化モデル
8 学生文化の差異―大学進学理由、キャンパスライフの過ごし方、充実度の規定要因
9 学生支援のあり方を考える
10 学生の意識や行動に、大学入学偏差値・大学イメージと実際の大学教育の中身の2つが影響を与えている(入学偏差値の違うABCの大学の学生文化の差)。大学の偏差値やイメージの持つ意味(機能)にも注目。上位の大学には、個人主義な学生が集まり、授業に満足しているが、大学はもう少し勉学に力を入れてもいいのではないか。

学生にとっての教師

大学教師と学生との関係というのは、どういうものなのであろうか。
私の知り合いの80歳になる教育史の先生が、毎日神棚にお祈りするとき、恩師の名前を唱え、お礼を言うという。また、もう一人の80歳の先生は、学生時代に、指導教授が熱っぽく語った分野が今まだ気になり、これからさらにその分野の研究し本を1冊書こうとしている。
このように学生にとって、大学の教師、特に指導教授の影響は大きい場合がある。しかし、このような例は今は特異で、今は大学教師というのは、自分にいくつかの断片的知識を与えてくれた人、読むべき本を紹介してくれた人という程度ではないか。
今の時代、情報過多の時代なので、読むべき本や情報を提供してくれ、読んだり学んだりする方向を示してくれる、そういう先導者としての役割を果たす人が必要で、それを大学教師がはたしている。
 人が生きる上で、こういう先導者が重要なことを、ジラールや作田啓一が指摘しているが、教え子は、この先導者をすぐ追い抜き、尊敬が軽蔑や憐憫に代わることを、漱石の「心」の先生は明確に述べている。大学の教師たるもの、若い人を導き、追い越され、踏み台になる、それが大学教師の宿命と考えた方がいいと思っている。