放送大学東京文京学習センター

放送大学東京文京学習センターの客員教授を5年間勤めさせていただき、昨日(3月29日)が、最後の出校日となった。
5年前はまだ古い建物で、浮間船渡の小学校にしばらく移転して(そこで図書の整理をしている時3.11の震災にあい、そこに泊まった思い出がある)、2年前に今の新しい建物に移転した。
面接授業や自主ゼミで多くの人に出会い、有意義で楽しい時間を過ごした。
最後は、日本子ども社会学会の理事会も開かせていただき、建物の脇の美しい桜も鑑賞させていただいた。
お世話になった方々に、心より感謝したい。

3年ゼミ合宿

3月26日~28日は、敬愛大学こども学科3年生のゼミ合宿。場所は御宿。
9名の学生の参加で、研究テーマの発表と討論、過去の教員採用試験問題の模擬テスト、体育実技(卓球、ソフトボール、ビーチバレー、ダンス?)、家庭科実習(料理)、集団討議、などを行った。
料理上手な男子学生がいて、焼き肉、野菜炒め、焼そば、カレー(朝食は1回、私がトーストと卵焼きとサラダを作った)外食をすることなく自炊で賄い、美味しい料理を味わった。きれいな御宿の海を見ながらのソフとボール(三角ベース。球はテニスボール)やビーチバレーも楽しかった。
発表は、「サバイバルゲーム」と「アイドルとヲタク」の2つの発表があり、いろいろ知らないことを、教えられた。前者は今、ネットではなく実際の「サバイバルゲーム」がブームだとか。エアソフトガンで撃ち合うゲームで、全国にサバイバルゲームのできるフィールドが150近くあるという。若者の右傾化も関係しているのであろうか? 後者の発表は、私の知らない単語が100近く出て来た。キモヲタ、女ヲタ、女ヲタヲタ、ガチ恋、沸き師、踊リスト、地蔵、暗黒剣士、脳内 背面ケチャ など、全くわからない。アイドルヲタクになり、恥ずかしさを捨てることも、学校の教師には必要という発表。ビデオを見ながら、実演もしてくれた。
私は、合宿中は学生と一緒に、同じ行程で過ごし疲れを感じなかったが(宿泊先だけは別にし、夜はぐっすり眠った)、自宅に帰ってきて急に疲れが出で、体がだるく、休息を必要とした。 自分の歳を考えなければ。

古い友人からのメール

大学時代に、同じ授業を取っていて、よく話した友人(しかし、大学卒業以来会っていない)から、福島に関する本を出したので、読んでほしいというメール(下記に抜粋)
をもらった。彼が福島出身であることを思い出した。是非読んで、彼からも話を聞きたい。

ご無沙汰しています。突然のメールを差し上げます。井上 仁です。
福島第一原発事故で、故郷の福島県浜通り地区の住民15万人が、今なお、先の見えない避難難民生活を余儀なくされています。井上の生まれ故郷「双葉町」も、帰宅困難区域に指定されています。
福島県浜通り地区の15万人の住民が国の原発政策の犠牲となって、故郷を奪われ、生活基盤を根こそぎにされたまま、今なお先の見えない避難生活を余儀なくされています。怒りと悲しみと無念さはつのるばかり、何の咎もない住民にとって、この理不尽さは「悔しい、腹が立つ」、 まさに福島県の方言でいうことなのです。
ふるさと福島の皆さんとともに、「これまでの3年」はどんな苦悶の道だったのか、そして、「これからの3年」が正念場、今後どのような生活再建、村や町再興への道を歩もうとしているのかを「フクシマの記録」にまとめました。

井上仁『ごせやける、許さんにえ』言叢社、2014年3月

「フクシマの復興なくして、日本の復興はない」とした、あの時の思いをあらたに、国民の多くの皆さんに被災者とともに、この記録を共有していただき、フクシマ復興支援サポーターの輪を広げることに一層のお力添いを下さるよう、宜しくお願い申し上げます。
今後は、皆さんとともに、「フクシマMM」(フクシマメールマガジン)を媒介として、さらには勉強会や研究会等の集まりを通して、情報交換を行う「フクシマ復古支援ネットワーク活動」に取組んでいきます。あわせてご協力を宜しくお願い致します。
フクシマ復興支援ネットワーク 事務局 井上 仁 fukushima-n.w@belhyud.com

台湾へ行こう

先の戦争で、アジア諸国で同じようなことをし、中国、韓国からはいまだに憎しみと恨みを言われているにも関わらず、台湾からはそのような声を聞かないのは不思議である。台湾の人は日本人に優しい。それは、なぜなのか。それは、国民性の違いではないかと藤原新也は述べている。

そのような台湾の人との交友を歌った若い世代の動画を紹介させていただく(少し軽すぎるような気もするが)。