コンサートのような学会の部会

渡部真氏がブログ「ユース・カルチャーの社会学」の最新号の中で、素敵なコンサート(ライブ)を聴いた余韻のようなものが残った学会の部会ことを、書かれている(以下、そこからの転載)。こんな、部会が企画できたらいいと思う。

<ところで、昨日、慶應大学で開かれた日本社会学会の大会を見に行きましたよね。
K はい。
W 井上俊先生に、3人の若手の研究者が質問をして、井上先生がそれに答えるという部会がありましたけど、あれはどうでしたか?
K 面白かったですね。
W 僕は、とてもすばらしいなあと思いながら聞かせてもらいました。文学と社会学の関係や、鶴見俊輔や作田啓一についての話が中心でしたが、3時間があっという間にたってしまいました。実は、生の井上俊を見たのは初めてだったんですけど。
K 学会のセッションに出ているというより、井上先生を主人公にしたドキュメンタリー映画を見ているような気分でした、
W 井上先生の心優しいところや、若者を力強く信頼していこうという意思がとても強く感じられました。素敵なコンサートを聞いたあとのような余韻がいつまでも残りました。学会の大会を聞きに行って、ああいう経験が出来るのは、とても珍しい事だと思います。(http://sociologyofyouthculture.blogspot.jp/)(10月13日)

 井上俊氏は、作田啓一の弟子ということでも有名だが、すぐれた著作が数多くある。氏の話は、私はこれまで、教育社会学会の課題研究(「青年文化論」だったと思う」)で1回、社会学会で1回(ジェンダー論のシンポジウム、だったと思う)聞いている。後者では、「大学を完全消毒してしまっては、文化の香りが消えてしまう」というような話を井上氏はされて、ジェンダー論者から総スカンを食らい、気の毒だったのを印象深く覚えている。井上氏の論文や人柄から、そんな非難が出るはずがないのに、ジェンダー論者ってなんだろうと感じてしまった(私自身はジェンダー論には理解があるつもりなのだが)。

漱石「こころ」の解釈

朝、時間がなく、なかなか「朝ドラ」を見る機会がないが、今回の「朝ドラ」(「ごちそうさん」)は、本郷が舞台で、女学生の家に帝大生が下宿して恋が芽生える話しらしい。それは、漱石の「こころ」と同じではないか、と作家の林真理子が書いている(「夜ふけのなわとび」週刊文春10月24日号、p54-55)。その「こころ」解釈が面白い。

「下宿屋の奥さんは日清戦争で戦死した軍人の未亡人なのだ。、、まあ、最初からそういう意図があったと思われ、小説では結構したたかに描かれている。、、この家では、みんな一緒にご飯を食べるのだ。お嬢さんはものすごい美人とある。、、若い帝大生が二人が、三角関係に苦しむのは当然のなりゆきなのだ。強いていえば素人下宿を始める一見上品な未亡人がいけない。下宿人をステップアップに使うからだ。、、、時折響くお嬢さんの琴の音。静を破るパフォーマンスの効果を、下宿屋の未亡人とお嬢さんは知っていたに違いない」

漱石の「こころ」は、高校の国語の教科書にも取り上げられ、友情と恋愛の葛藤や、男の同性愛的傾向(土居健郎)、ジラ―ルの三角関係モデル(作田啓一)などで、解釈されることが多いと思うが、下宿の奥さんとそのお嬢さんの策略という解釈は珍しいのではないか。高校の教室で、このような解釈が出たら、どう扱うのか?

困難を克服する方法

躁鬱病でなくても、人には元気な時と沈み込む時がある。また長い人生、人には浮き沈みがある。元気の時は精いっぱい動き回り、調子の悪い時はおとなしくしているというのが一般的であろう。鬱や運のない時は、ジーとしていて、躁や運が巡ってくるのを待てばいい。

 しかし、「メランコリー親和型」の人は、おとなしい状態が永遠に続くのかもしれない。それを打破するためには、あえてテンションを高め、活動した方がいいのかもしれない。

藤原新也は、長い旅の経験から、困難を克服する方法について、次のように説明している。
<旅につきものの時に命を脅かすほどの困難や障害は乗り越えなければ先がないわけで、困難が生じるとそれ以上の気概と元気と冷静でそれを乗り越えるということを繰り返して来た>。