退屈な毎日への活性剤

先週の水曜日(16日)は、敬愛の4年のゼミをやる自分の研究室に着いたのが、1分遅れの1時1分。研究室の前で待っていた学生から、「先生はいつも遅刻」と大分怒られた。(「たった1分の遅れではないのか。外国では、人の家を訪問する時、少し遅れていくのが礼儀だぞ(ここは研究室なので家のようなもの)」、とブツブツ)
最近は、教室に、学生は早く行くようになっている気がする。それは、学生が時間に律儀になっているのか、教室で気に入った席を確保する為なのか、それとも別の理由なのかわからない(千葉では電車の本数が少ないせいで、早く来ているのかもかもしれない)。
私が学生の頃は、先生達は10分程度遅れて教室に入って来て、10分くらい早く終わるのが通例であった。また授業の開始日も開講日より1週間後、夏休みや冬休みの前後は1週休みが通例であったように思う。それだけ、のんびりしていた。
その時間感覚が、自分の中に染みついているような気がする。さすがに、今はそのようなことは許されず、開講期間や授業時間を守るようにしているが、つい本性が出てしまうことがある。休み前に授業を休みたくなったり、授業に行く時間が遅れがちなのである。
大学教員は時間にはかなりルーズな人種ではないか。研究仲間の会合も、開始が30分遅れなどザラで、人が集まったら研究会や会合を開始する場合が多い(さすがに、教授会などはそのようなことはないが)。
私も含め多くの大学教員は、会合は定刻ではなく、遅れて始まるのが、当たり前と思っている節がある。ところが役所や会社などの会合は、時間通り、ないし全員が揃えば時間より早く始まることもあり、冷や汗が出たことがある。
会合には、1分前に会場に着くように想定するのではなく、15分くらい余裕をもって家を出るべきと思うのだが、それがなかなかできない。ぎりぎりに家を出て、バスや電車の乗り継ぎがうまく行き、1分前に会議に滑り込みができた時の快感が忘れられない。それに、間に合うかどうかのハラハラ感が、退屈な日常への活性剤になる、と考えてしまう気がする。
今日も授業や会合に遅刻しないように行こう。

時間の流れ

 定年後は、毎日退屈な日々を送ることになるのかと思っていたが、現在は、幸か不幸か、毎日忙しい日々を過ごしている。平日は、秒や分単位で生活しているような気がする。
 平日は、家を出て少し歩いて、バス停に着くと同時にバスが来る。駅のエスカレーターを上りきった瞬間に電車がホームに入ってくる。会合の時間の1分くらい前に、会場に到着する。
実際は、このようにうまくいかず、信号や途中の込み具合で遅れ、その遅れが連鎖的に繋がり、大幅に遅れることがあるが、平日のスケジールがぎっしり詰まり、秒や分単位で生活し、そのスケジュールがうまく消化できた時はうれしい。
 毎日、忙しく生活していると、週末にのんびり生活している場に行き、そのスローな生活に驚くことがある。
千葉の外房の「御宿」に電車で行くことが時々あるが、外房線の普通列車は1時間に1本しかない。そこで、千葉駅や御宿駅で列車が出たばかりの時は、1時間駅で待つことになる。2~3分置きに電車が来る、東京都心と大違いである。
 週末は母親の介護で実家で過ごすことが多いが、そこでの時間の流れは、遅い。 先週の土曜日(19日)、たまたま、母親の薬をもらいに、処方箋をもって、近くの薬局に行った。そこで、薬を待っている人は2人なのに、薬をもらうまでに20分近くの時間かかった。局員がのんびり、料金の計算方法など、話し合っている風であり、待っている人も、別に苛立っている風はない。うちの近くの薬局では5分はかからない。薬局で薬をもらうのにかかる時間で、都会度がわかるのではないかと思った。

ジョンレノンの非暴力・反戦活動

19日のBS11で、ドキュメンタリー映画「PE ACEとBED; アメリカvsジョンレノン」(2006年、アメリカ映画)をやっていて、少し見た。
昔、ジョンレノンとオノヨウコのベット・インの報道を見て、そんないい印象を持たなかったことを覚えている。
そこに、この映画で指摘されたような、深い思想と非暴力の反戦活動があったとは、当時、思い至らなかった。ベトナム戦争を遂行するアメリカのニクソン大統領とFBIは、ジョンレノンとオノヨウコの反戦活動に脅威を感じ、盗聴、尾行、さらには迫害を実行していった。映画では、その様子が、克明に描かれていた。
FBI長官が、自分たちの立場を正当化する時、「愛国心」、「道徳心」、「自分の国家と家族を守る」「強い意志」、「神への信仰」という言葉を繰り返しもちいていた。その言葉のもとに、ベトナムでの戦争、そしてそれに反対するジョンレノンとオノヨゥコへの迫害を行っていたことを、銘記しておきたい。

若者文化とハイ・カルチャー

東京成徳大学の「青年文化論演習」では、3年の中村拓未君が、「若者文化とハイ・カルチャー」というテーマで、興味深い報告をしてくれた。 その内容は、大体次のよう。

若者文化とは、青少年層に支持されている文化的形態や活動のこと。特徴として、既存の文化から異端とみなされる新しい価値観を持っている。
ハイ・カルチャ―とは、学問、文学、美術、音楽など人類が生んだ文化のうち、その社会において高い達成度を示していると位置づけられるもの。
ハイ・カルチャーの若者文化で代表的なもの
① 音楽→ロック(1950年代)、ヒップホップ(1970年代)、ビジュアル系(1990年代)
② ファッション・ライフスタイル→モボとモガ(1920年代)、ヒッピー(1960年代)、
パンク・ファッション(1970年代)、ヤンキー、ギャル、おたく。
③ メディア→アニメ、漫画、コンピューターゲーム
④ その他→ ケータイ、合コン
それぞれの時代に、若者はその時代の若者文化を体験し、その極みまで達すると(それがハイ・カルチャー)、それが身体化され、共通の世代体験となる。
団塊の世代には、学生運動のハイ・カルチャ―がある。
今の若者世代は何がハイ・カルチャーであろうか。それはケイタイ(スマホ)文化かもしれない。

私の場合の青春のハイ・カルチャーは何だろう。実はいくつもあって、それを今の学生に押し付け、「時代遅れ」と言われているのかもしれない。