千葉でも大雪

昨日(14日)は、成人式の日。千葉でも午後から雪が降り始め、どんどん積り始めた。敬愛の2年生にも、新成人がかなりいるものと思われる。今年の成人式の若者には、気の毒な天気だった。
雪国に行かなくても、街中が、一面真っ白な雪景色になるのは、変わり映えのしない日常に降ってわいた非日常で、たとえ寒かろうが、電車やバスが止まろうが、なんとなく嬉しい。
(実際は、母の介護に行った「ちはら台)で足止めを食い、そこでさらに1泊し、敬愛の1時限の授業に間に合うように、早朝に実家を出て、大学に向かった)

放送大学大学院修士論文のテーマと審査

一昨日(1月13日)は、放送大学大学院の岡崎研究室の修士論文の審査があり、そのお手伝いに、千葉幕張の放送大学(本部)に馳せ参じた。その日審査された論文は4本で、そのうち3本を読ませてもらった。そのテーマは、下記である。
① 病弱・虚弱児(病気療養児)の支援ネットワークのあり方について(室正人)
② 私立学校研究ー日本の私学政策の歴史と江戸の教育から私学の今後を考察する(櫻井清近)
③ 県立図書館は高校生の読書活動をどう支援できるか(西田尚美)
④ 地域情報における市民の意識と地域メディアー(岩見龍也)
これからわかるように、放送大学の院生の研究テーマは、自分の仕事の関連したことが多く、関連してデータを集めたり、仕事で新たな試み(実践)をしたりで、それを広い視点からまとめ、考察するという内容のものが多くなっている。皆、自分の仕事(実践)を、学問(理論)によって見直すという意義のあることをしているという印象を持った。
審査では、本人の口頭説明を聞き、それに質問し、コメントした。私自身は、テーマ的にも内容的にも教えられることが多々あった。たとえば、次のようなことである。
① 学校における病弱・虚弱児(病気療養児)の現状は、全国で2万人は存在するにもかかわらず、その実態はほとんど把握されておらず、その支援も手薄になっている。
② 江戸の教育(寺子屋、藩校など)には、近代以降の教育には失われた貴重なものがある。たとえば、少人数、個別教育、習得主義、素読の学習法、平和教育など。それらは、現代の教育に取り入れると有効なものがたくさんある。
③  高校の調べ学習などに、県立の図書館がテーマ別セット貸出のような形で、支援することが可能なことがある。兵庫県立図書館などでは一定の成果を上げている。
④ 市民が地域メディアに求める情報の分類や類型化を行うことができる。そこから現代の地域メディアの在り方が考察できる。
その院生たちが集まっての議論やおしゃべりも有意義であった。前日(12日)から岡崎研究室の修士1年生や院生のOBも集まり、さまさまな議論がなされた。一番、多く話題になったのは、やはり東北の地震やその支援のことであり、震災の被災地の映像(ドキュメンタリー)を見ながら、震災対策に関して話し合った。引き続き東北への支援は必要であり、さらに首都圏(千葉、神奈川、東京)も他人事ではなく、震災対策を早急にしなければならない。

文化人についてーもやもや感の解消

なんとなくもやもや感じていたものを、ズバッと明快に斬って(言って)くれる人がいると、スッキリする。社会学の分野では、そのような役割を果たすことのできる人に、竹内洋氏(関西大学)がいる。竹内洋氏の冴えが健在なことを、昨日の読売新聞(2013年1月14日、朝刊)で知った。その一部を、転載する。
 
 <「知識人」や「インテリ」という言葉は80年代に最後に死語になりはじめた。そのかわり,ゆるい知識人もどきである「文化人」という言葉が氾濫しはじめた。日本人の知性や知識人に対する愛憎併存が見出した中和的な回答が「文化人」ではなかったか。>
< あからさまな反知性主義というより疑似知性主義とポピュリズムが手を携えあっているのである>
<われわれは、ゆるい知性もどきのなかで、知性の意味を考えることなく、「半」知性主義から「脱」知性主義へと緩慢な知性の死に向かっていないだろうか。あたかも猫が生クリームもどきの山の中に放り込まれ、満足と法悦のなかで溺死していくように。>