授業の中での個人情報

個人情報の時代、大学で授業をやっていて、学生の個人情報の扱いに苦慮することが増えている。他の先生達はどのようにしているのであろうか?
何かのテーマで講義をする時、学生に自分の身近な問題としても考えて、そのテーマに関心を持ってほしいと思うので、学生にそのテーマに関連してのことを聞くことがある。
たとえば、「これまでいじめられた経験はありますか」「小中高のどの時代が一番楽しかったですか」「あなたの大切にしている価値は何ですか」「好きな歌手やグループはいますか。そこの歌詞では、どのような価値が歌われていますか」など。
上記のような質問や「これこれの考えの人、手を挙げて下さい」というような発問を、講義中にしていいものかどうか迷う。
それらは、個人情報で、人に知られたくないと思っている学生もいるかもしれない。つまり小学校時代はいじめられ暗い時代だったことを人に知られたくない人もいるはずある。それを皆に知られたために、人から軽蔑されたり、仲間外れにされたりすることがあるかも知れない。そのような危険なことを、大学教師はしているのかもしれない。誰かの書いたレポートやリアクションを皆の前で紹介することがあるが、それもよほど配慮しないと同じような危険を冒すことになる。
学生も、もちろん対策は考えているであろう。小泉恭子によれば、高校生(特に女子)が「好きな音楽」について語る時、場所や状況に応じて「好み」を使い分けているという(2007,『音楽をまとう若者』勁草書房)。女子高校生は、フォーマルな空間(音楽の授業)やセミフォーマルな空間(部活動)では「スタンダード」や「コモン・ミュジック」を自分の好みの音楽として語り、それを隠れ蓑に「パーソナル・ミュージック」の好みを包み隠し、自己防衛をし、自分の立ち位置や居場所を確保しているという。

大学の授業の中で、指名して発言を求めても、なかなか意見をいいたがらないのは、このような事情があるのかもしれない。つまり個人情報を知られたくない、皆の前で恥を晒したくないという学生の強い気持ちがあるのかもしれない。

それでいきおい、私は授業で、学生に発言を求めず、一方的な講義になることも多い。他の先生方は、この点をどのように考え、対処しているのであろうか。

子ども社会、甘えの社会

もう大人である放送大学の学生と、「放送大学では授業中の私語が皆無なのに、どうして一般の大学で私語が多いのか」というような話をしていたら、「それは一般の大学生が、子どもだからではありませんか」という意見を言う人がいた。
「大人はお互いに気を遣い、相手に失礼になるようなことはしない、それに対して子どもには、どんなことをしても、自分達は子どもだから大人から許してもらえるという甘えがある」というものであった。
 「なるほど」と納得した。
それにしても、世の中には、「何をしても許してもらえる」と、甘えた考えの大人(大人になれない子ども)が多いのではないか。
日本は「甘えの構造」(土居健郎)に満ちているし、弱者にも配慮する社会なので、自分は子ども、あるいは弱者と自己規定し、わがままを通し、権利を主張し、他者(大人)の心の痛みがわからない人が多いのかもしれない。

ブログを読んで下さったMさんよりコメントを頂いた。お礼を申し上げると同時に、掲載させていただく。

<「こども社会、甘えの社会」、全く同感です。私のこどもの頃は事あるごとに「甘えるな」「わがまま言うな」と叱られたものですが、最近会津若松市に行くことが多く、史跡を訪ねると「それでこではないな」と驚愕することがありました。再現された会津藩校「日新館」の入り口に「什の掟」という大きな看板があります。これは藩士のこども達に教えてものです。
【一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。三、嘘を言うてはなりませぬ。四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。五、弱い者をいじめてはなりませぬ。六、戸外でものを食べてはなりませぬ。七、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。ならぬことはならぬものです。】
また、藩主の別荘だった「御薬園」の茶室に次のような内容の掛け軸がありました。
【「初にも敬いの心を忘れない」人の子であるからには、両親のいらっしゃる奥の間には軽い気持ちで入るべからず。座敷に座る場合にも、真ん中は尊者(長老)や年長者に譲り、子供は隅の方に座る。道を歩く時も、男女それぞれに左右の別があり、道の真ん中は尊者が通られる所なのでそこは避ける事。我が家の門であっても真ん中は尊者が出入りされる所なので、通ったり、立ち止まったりはしない。君門に至っては、尚更の事である。】>