以前にここで紹介した吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012年)を読んで、教えられることは多々あった。
特にこれは、原子力の政治的、経済的側面と言うよりは、文化的な側面である。原子力のカルチュラル・スタディーズと言っていい分野である。
次のことは、私がぼんやりとしか理解していなかったことある。原子力の暗喩がこんなに満ち溢れているとは知らなかった。
<ビキニ=水着は、それをミニ付けた女性が周囲の男たちに与える「破壊的刺激」が「アトム=原爆」に喩えられ、やがてその実験が集中的に行われていた「ビキニ環礁」の海と「原爆級に刺激的」な水着の女性というイメージが合体して現在の名称が確立したのである>(200ページ)
<原水爆ソングは「冷戦オリエンタリズム」の匂いを帯びていなくもなかった。、、1957年にワンダー・ジャクソンが歌った「フジヤマ、ママ」はセクシャルな原爆イメージに、「日本に対する露骨なオリエンタリズムを倒錯的に結びつけた顕著な例である。この歌では、「フジヤマ・ママ」が原子爆弾そのものに喩えられ、、、被爆した側に対する徹底的な鈍感さ、、、、驚くことに50年代の日本は熱狂的に歓迎し、、、雪村いずみが日本語版をカバーし、>(201-204ページ)
<日本版『ゴジラ』が表象したものは,紛れもなく原水爆の恐怖そのものであった。1954年という誕生の年から考えても、映画での山根博士による説明からしても、ゴジラは何よりもビキニ沖で被爆した第5福竜丸の隠喩であり、さらに原子爆弾そのものの隠喩でもあった>(216ページ)
<手塚治虫の鉄腕アトムは原子力エネルギーで作動するロボットであり、体内に原子炉(10万馬力)を内蔵している。しかもアトムの妹は「ウラン」、弟は「コバルト」と名づけられている、、、、ドラえもんも、機動戦士ガンダムも原子炉を内蔵したロボットであった。、、戦後日本のアニメにおけるロボットイメージは、その原点で原子力と不可分な関係にあった。>(243ページ)
<「風の谷のナウシカ」における玉蟲もまた、核を生み出した文明(巨神兵)への徹底的な問い直しを含んでいる。>(256ページ)
<大友克洋『AKIRA』において、外部の何物かによって落とされた核爆弾によってではなく、身体的に病んだ少年の超能力によって覚醒する原爆並みの力のために、近未来都市が破壊されていく様子を描くことのなったのである.,,,このように、70年代以降、原子力的な破壊のイメージが文化的な自己意識に深く内面化されていったのは、戦後日本のメインストリームの大衆意識が、原水爆を高度成長以降の日本には無縁の、その外側にしか存在しないはずのものとして遠ざけてきたことと見事なまでに逆立していた>(261~2ページ)