私の歳で、また歳を重ねるのはあまり嬉しくない。したがって、誕生日と言っても、とりわけ感慨があるわけではない。また、昔はお正月に歳を取る「数え」という方が、誕生日に歳を取る「満」より優勢だったので、誕生日に祝ってもらった記憶はあまりないし、お正月に歳をとり、お年玉をもらえる方がうれしかった。
そうは言っても、90歳になる母親から「誕生日おめでとう」という電話がかかってきた時、誕生日は私一人のものではないし、ここまで健康で平穏に生きて来られたのは、多くの人の御蔭である。母親とあるいは家族で祝うのもいいものだと思った。
今日は、少し遅れたが、娘たちが企画し、海浜幕張のイタリアンレストランで、家族全員で一緒にランチを取り、私の誕生日を祝ってくれた。お店では、誕生日の特別デザートを出してくれた。
このイタリアンレストラン(オレアジ ひひ野店 http://www.oreaji.com/index2.htm,)はカジュアルな店だが、感じがよく、パスタやピサの味もよく、デザートも美味しくて、お勧めである。
日: 2012年8月12日
『児童心理』(9月号)を送っていただく
深谷和子先生(東京学芸大学名誉教授)より、先生が編集代表をされている雑誌『児童心理』(9月号)を送っていただいた。
お手紙には、次のような言葉が添えられていた。
<いい夏休みをお過ごしのことでしょう。数日して、児童心理9月号(「子ども目線に立つ」)がお手元に届くと思います。御年輩の先生で領域も違うし、ご存じかどうか分かりませんが、「大正自由教育の研究」で昔毎日出版文化賞受けられた中野光先生が、この号に窓際のトットちゃん関連で、ともえ学園のことを書いておいでです。中野先生は数年前に突然目がご不自由になられ、特殊な機械?を使っての大変な作業をしてのご執筆でした。先生にもその論考を読んでいただけたら嬉しいと思い、謹呈申し上げます。眼が見える私たちはもっと頑張らなくてはいけませんね。いい夏休みをお過ごし下さい。深谷和子>
『児童心理』は心理学が専門の雑誌なので、時々しか読む機会がないが、いつもその時代にマッチしたテーマが選ばれ、学問と現場の臨床に根ざした読み応えのある論稿が掲載されている。長年編集に携わってこられた深谷和子先生の学識と見識の高さを伺わされる雑誌である。
今回も、「子ども目線に立つ」という視点で、巻頭の新富康央先生(国学院大学、教育社会学)(「よくない教師の1つのタイプが、『先生らしい先生』なのです」というフレーズが印象的であった)はじめ、興味深いさまざまな論稿が満載である。
竹内和成「犬の目線―『犬からみた世界」を読む』」も、毎日犬と付き合っている私からみると印象的であった(「犬は私たちを観察する。私たちを見つめ、私たちの気分を感じ取り、次の行動を予測する」「犬は課題を解決するのに自分で考えるよりも、人間をあてにすることに方向転換をしたらしい」 など、納得できる指摘が多くある)
深谷和子先生のすすめる中野光先生の「『窓ぎわのトットちゃん』をひきつけた小さい学園の教育」は、圧巻の論稿であり、内容も文章も、心打たれるものがあった。
「大正自由教育と手塚岸衛についての研究者の一人である私にとっては『手塚と自由学園の教育』があの戦時下でも生きていたことを知った喜びも大きかった。」(115ページ)とあるように、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』の背後には、大正自由教育や教育学者・手塚岸衛の教育理論が息づいていたことを、鮮やかに描き出している。
中野光先生が、『窓ぎわのトットちゃん』の書評を書き、その出版記念会に招かれて、黒柳徹子と会ったとき時のエピソードもほほえましい。
この文章を読み『窓ぎわのトットちゃん』を再読したくなり、家で本を探したが見つからず、アマゾンで注文してしまった。
中野光先生には、以前に一度深谷昌志先生のご本の出版記念会でお会いし、そのご著書も1冊読ませていただいたが、研究者の繋がりがこのような形で存在することに、感慨深いものを感じた。
本をお送りいただいた深谷和子先生に心から御礼申し上げる。
オリンピックゲームについて
オリンピック競技を皆どのような気持ちで見ているのであろうか。私はあまり節操がないので、日本人の平均に近い形で見ていうように思う。ただ、所詮ゲームという気持ちもある。
たまたま起きていたということもあり、サッカーの試合は男女ともほとんどLIVEで見た。日本のチームを応援する視点で見ていたので、勝てば嬉しかったし、負ければ悔しく思った(日本チームが勝った試合は何度もビデオで見たいが、負けた試合は2度の見たくない、という気持ちになるのが、不思議であったが)。
今回のオリンピックは、震災の復興支援(「メダルを取れば、それが被災者を元気づける」という意味もあり、日本の国家意識がかなり強く出ているように思う(特にマスコミにおいて)。私の場合「ニッポン」を応援するという気持ち、ないとは言えないが、それほど強くない。所詮オリンピックゲームであり、国家意識高揚に利用されたくという気持ちがどこかある。
選手たちはどのような気持ちで戦っているのであろうか。日の丸を背負ってのプレッシャーがかなりあるのであろうか。試合の終わった後、相手の選手と健闘をたたえ合う姿を見ると、それほどの国家意識ではないようにも思え、「ホット」する。ただ、「メダルは取れなかったけれど、充分楽しめました」とにこにこしている選手には、「君を派遣するために税金がどれだけ投入されていると思っているのか」と言いたくなる時もある。いずれにしろ、応援する側、見る側は、勝手なものなのだ。