立教大学で開かれる教育社会学会の理事会に出席するために、稲毛海岸駅から、京葉線―有楽町線に乗り池袋へ。
池袋駅は出口が複雑で、改札口を出て迷い、うろうろ。東京で人に道を聞くのは恥ずかしく、必死に探す。途中知り合いに会い、何とか5分遅れで、立教大学の会場に着く。立教大学はレンガ造りと緑(蔦)の多い、なかなかおしゃれな大学。人気があるのがわかる。
教育社会学会の理事会は、今学会で活躍の研究者がズラリ。私からみると皆若い(出席者の中では私が最年長であることには驚いた)。北は北海道(北大)から南は九州(九大)から駆けつけ、学会の「重要事項」や大会のプログラム編成を審議。
でも、学会運営に関する事務的な会議であり、学問的な議論がなされるわけではない。また、会の後に懇親会(飲み会)もない。このような会議に、一日かけて(私の場合は往復3時間)参加する意味(意義)は、あるのかと思う人も多いのではないか。
学会には理事や理事会が必要であり、学会が成り立ち、スムーズに運営されるためには、理事会の開催が必要である。それがわかっていても、大学教員たちは、実質的な貢献や学問的議論ない会議、、あるいは人との交流のない会への出席は、むなしさを感じているのではないだろうか。
私が助手の頃の30年以上前の教育社会学会の理事会はこのようなものではなかった。毎月1回、在京のメンバーで東大に集まり、お茶と和菓子が出て、それを味わい、形式的な報告と議論があり、理事会は早々に終わった。皆で本郷3丁目の駅に向かい、途中誰かが「少し喉を潤していきましょうか?」とおずおず言い出し、皆しぶしぶそれに同調するような素振りを見せながら、実は
延々と飲み会が続くのが常であった。カラオケが上手で、大学教授にしておくのはもったいないような先生もいた。その席で、重要なことはかなり決まったように思う。(次期役職、次期大会校、大学の人事、非常勤、編著の執筆者等も)。
昔がよかったとは思わないが、人との関係の薄れた理事会も、少しさびしい。