無償の行為-お金で買えないもの

母の家の両隣のご主人達が、母の家の垣根が蔦に覆われているのを見かねて、二人で協力して蔦を撤去し、替わりにりっぱな竹で垣根を作ってくれた。その竹は、知り合いから貰い、運搬はまた別の知人がしてくれたという。
母を介護している妹が「お礼にいくらお支払すればいいでしょうか」と聞いたところ、怒られ、「お礼をもらうくらいだったらやらなかった」と言われたという。

マイケル・サンデル教授の6月16日のNHKテレビで放映された5000人の白熱教室「すべてお金で買えるのか」では、同じような話が紹介されていた。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/120616.html
スイスで、プルトニウムの最終処理場の建設を巡り、ある村で住民投票があり、第1回の投票で、建設賛成が51%であった。そこで政府が高額の補償金を提示し、第2回目の投票を行ったら、建設賛成が増えるどころか減り、20%台になったという。 人は、犠牲的精神で危険な建設を受け入れたのであり、金銭的利益を求めたわけではないことがわかる。
 何でもお金で買える市場社会は蔓延しているが、このようにお金で買えないものがいまだに存在する(人の美徳?)。これはスイスの例だが、一般には、非市場社会は、西洋より東洋に多いという。

3日間の母の介護(体験)

ここ3日間は、日頃母の介護をしている妹に替わり、母(90歳)の介護(体験)。
私のやることは3度の食事の用意と車椅子を押しての散歩だけなのだが、どこにいても、いつ倒れるかわからないので、目を離せない。
今はスーパーに何でもあり、食事は思ったより楽(出来あいのお寿司やお弁当を買いこともできるが、今回はうな丼、シチュー、卵焼き、サラダ、冷や奴、キツネそば、生ラーメンなどを作った)。
母の家には、PCもインターネットもなく、手持ち無沙汰であることも確か。暇に任せて、庭の雑草を抜き、近くのホームセンターから草木を買い、植えた。また日頃見ないテレビをよく見た。
でも、90歳の母と3日間も過ごせたのは至福。