ハーバードと日本の大学、学生の比較

4月27日に神田外語大学の「教育社会学」の授業で、NHK特集「エリートはこうして育てられるーアメリカ・ハーバード大学」(1987年2月23日)という番組を見せ、その感想を書いてもらった。そのコメントの一部を抜粋する。
全体には、アメリカと日本の大学や学生の違い、とりわけ論戦型の授業や学生の勉学への熱心な取り組みに驚き、日本の学生ももう少し勉強しなければだめだという殊勝な感想が多い。

学生のコメント(抜粋)

・アメリカの大学の映像を見て驚きました。授業での学生と教授の議論に驚きました。 ・凄い授業だということです。皆が真剣に取り組み、予習もしっかりして、とにかく積極的に学んでいることに驚きました。・アメリカの大学生はまさに学ぶための学生生活を送っているようだ。大学生の勉強している量も圧倒的に違っている。・とてもレベルの高い教育だと思いました。・教員と学生がキャッチボールのように論争をしていてすごいと思いました。・アメリカの大学はコミュニケーションと個性を引き出す中味の濃い授業をしていると思った。・すごく実践的なことをやっていると思った。即戦力とよく言われることはこうゆうことなんだと思った。・私もだが、授業中に発言する日本人はほとんどいない。 ・日本の学生は控えめで、先生の講義を聞くだけになっているので、アメリカを見習うべきだと思いました。・アメリカの大学教育の厳しさ、大変さに驚いた。日本の大学は本当に、受け身の授業なのだと痛感した。アメリカではレベルに関係なくどこの大学でもこのような感じなのでしょうか。・日本との大きな違いを感じた。一度ああいった授業を受けてみたい。・アメリカのエリート育成は素晴らしいと思った。日本ではエリート養成はどのように行われているのか。・授業もハウスも生徒自身に考えさせ学ばせる機会がたくさん与えられているなと感じました。・ハウス制度はとてもよいものだと考える。学生が一緒に勉強する時間があり、教え合いもでき、お互いの存在が刺激にもなる。・卒業生が受験生の面接を担当するというような制度はとても新しい。3000人いる教授陣も大学で教える以外、専門的な分野で活躍して人がいるからこそ、詳しい授業が受けられるのだと思った。・神田は予習の課題も多いし、ネイティブの先生の教育を受けれるから、他の大学に比べ優れた学生が多いと思います(学力面だけでなく人間性とか)・アメリカのよいところをそっくりそのまま受け入れることはできないと思う。・彼らは少し勉強し過ぎではないでしょうか。朝、新聞を読む暇もなく、夜0時まで文書を読んでいる。人としてどうでしょう。・社会的に優位な人間とそうでない人間の間に溝をハーバードは作ってしまっている。このような教育が必ずしもいいとは限らない。

リアクションへのコメント(武内)

・少し古いビデオだが、ハーバード大学の様子は基本的に変わっていないと思う。日本の大学の様子とひき比べ、これまでモデルにしてきたアメリカの大学の様子を知り、日本の大学や自分達のことを考えることは重要だと思う。多くの学生が日米の違いに衝撃を受けている。・学生がよく勉強すること、討論型(論戦型)の授業、実践的授業、ハウス制度、教授の社会的活躍など、日本の大学、教員、学生が見習うべき点が多くある。・ただ、ハーバード大学の社会的位置にも注意が必要。創設はアメリカ国家より古い名門私立大学。教員スタッフが多く、学部生より大学院生の方が多い。日本の大学院生もこの程度は勉強している。アメリカでも勉強しない大学生に手を焼いているという報告はある。(『恐るべきお子さま大学生たち―崩壊するアメリカの大学』ピーター サックス)・論戦型授業に皆感心しているが、ロースクルーの円形型の教室での論戦内容は、「土地を所有していたが20年それを放置していた人に権利があるのか」というものであり、日本の学部生でも充分に議論のできる程度の水準である。・入学選抜で卒業生の面接評価を重視するということだが、具体的にその結果をどのように使うのか(面接者により評価の基準も違うであろう)を考えると、公平性の点で心配になる。多くのスタッフを擁して、大学の運営費用は高く、授業料も高額である。お金持ちのエリートの再生産だけで、世界のリーダーを育てていいのか。いろいろ見習うべき点はあるが、アメリカのエリート大学もいろいろ問題があることがわかる。

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私のブログではスペースの関係で、小さな写真を掲載することが多い。
言うまでもないが、写真をクリックすると拡大する。 
黒板の字(4/27,5/1)も,学生のリアクションの内容も(4/24)も、小説の内容(4/30)も、御宿の海(4/28)も鮮明に、見える。
見え過ぎて、恐ろしい気もするが。

雑草

「これは雑草、抜かなければ」 と、誰が決めたのだろう?。
「雑草」もけなげに咲いている。
観賞用植物なのか「雑草」なのかは、人が決めることなので、植物に「罪」はない。いわゆる人々の「ラベリング」が先にあり、そのラベルにより「良い」植物か「悪い」植物が判定されていく。
朝起きて、庭の雑草を抜くことがよくあるが(それをしないと、芝生が雑草に駆逐される)、それでも、「雑草」の立場からすれば、朝一番のさわやかな時にいきなり抜かれるなんて、なんて辛いのだろうと、心が痛む。
以前に、根がどんどん張り、小さな黄色の菊のような花が次々と咲き、気にいっていた植木があった。それは外来種で人体に害があるという新聞記事があり、本当に害があるのかきちんと確かめず、それを根こそぎ駆除した。その時も心が痛んだ。(私はかなりひどいことをしているかもしれない)
インターネットで「外来植物」を検索するといろいろ出て来て、生態系への影響や人体への影響など書かれている。
www.niaes.affrc.go.jp/project/plant_alien/book.html
この分野も、かなり奥が深く、調べ、考えなければいけないことがある。

学生のグループ発表

昨日(5月1日)の授業は、学生のグループ発表だった。4年生3人が、よく準備した、い発表をしたくれた。聞き手も、先輩の発表とあって、熱心に聞く。

 「人が何かを学ぶ時は、その欲望や動機も含めて、先輩や先人の模倣をし、その人をモデルにして学んでいく。周囲の人は、子ども・若者の成長、発達のモデルになることが必要であろう。
夏目漱石の『こころ』の先生は、下宿のお嬢さんが結婚に値する女性かどうか、尊敬するKの判断を仰ぎ、その判断に基づいた行動をとった。Kの自殺により、先生はモデルを失い、その後生きる指針を失った(作田啓一、1981、『個人主義の運命』岩波新書)。モデル、模範がいかに重要かがわかる。」(武内清・岩田弘三編『子ども・若者の文化と教育』放送大学教育振興会、2011、p.218)

 敬愛大学こども学科の学生も、先輩から多くのことを学んでいく。