これからの大学、これからの学生支援

先日の「大学文化・学生文化研究会」で、議論された内容を、忘れないうちに書きとめておきたい。

① 「大学の勉強・学習」と「職業(特に企業)での仕事(能力)」の結びつきについては、学生も、教員も、企業人も、充分にわかっていない。企業が即戦力を求めているわけではない。求めているのは「即戦力性」である。企業の学生に求める能力は、大学の勉強・学習、サークル活動など大学生活を十全に行うことによって得られるものである。レポートや論文を書き、資料蒐集技術や論理的能力を養うこともこれに入る。
② 大学生に良いキャンパスライフを過ごさせることが、良い就職にもつながる。キャリアというと、学生は働いてから得ていくものを思っているが、大学生には大学生の立派なキャリアがある。それを支援することが、結局は良い就職活動支援ということになる。
③ 現在企業の就職面接はシンプルになっている。小手先の技巧では対応できない。面接で聞かれることは 「1 大学で何をやってきたか(体験談・事実) 2 そこから何を得たか(自己PR) 3 大学時代に得たものが、この会社に入りどのように役立つのか(志望動機)」
④ 学生達はコミュニケーション能力の意味を把握していない。企業が学生に求めているコミュニケーション能力は、お客(異質な他者)の期待に答える能力であり、仲間内のコミュ二ケーション能力ではない。仲よしグループでいくらコミュ二ケーション出来ても、意味がない。
⑤ アルバイト体験を企業は評価しない。アルバイトは末端の単純作業であり、それをいくらやっても就業体験になるわけではない。そのことを学生は理解していない。
⑥ 今の時代、大学の経営層も教授陣も、どのような理念や方針で、大学を運営や教育していくべきかの確信的なものがなく、揺れ動いていて、コンセンサスもない。
⑦ 大学を卒業して、企業や社会に入り、人生に対する構えが出来ていなくて、苦労する人が多い。生き方の哲学を大学で学ぶべきである。
⑧ 大学での学びは、高校までの学びとは根本的に違っている。大学は自ら学ばないと何も得られない場である。そのことを、最初のガイダンスや初年次教育で教える必要がある。
9 学生支援は、学生を手とり足とり指導・支援するのではなく、学生の主体性、自主性を伸ばす方法を考なければならない。
10 各大学には特有の伝統や組織文化がある。教員と職員の協力がスムーズな大学もあれば、それがギクシャクしている大学もある。その組織文化の実態を明らかにする必要がある。 大学によ大学によっては、学内のコンセンサスが得られていないところもある。どのような大学も、ビジョン(将来)、ミッション(使命)、バリュー(価値)が共有されていることが大切。

(小)鳥の性格

5月8日の「ソフィア・ガーデン物語」のエッセイ(「小鳥の性格」)の中に、次のような文章がある。(http://www.sophiart.co.jp/messay2012021.htm)

小鳥を眺めていると、人間と同様に、あるいはそれ以上に感情表現が豊かであることに驚かされます。
あの小さな(しかし体に対してはとても大きい)頭の中で、どのようなことを考えているのかわかりませんが、ひとつ言えることは「生来の楽天家」であろうということです。
何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」と解釈する天下一品の能力があります。人間の無造作な振る舞いに対しても、彼らは楽観的に利用します。使えるものは何でも使う、という態度で臨み、自分の都合の良いように解釈する天才です。
たとえば私どもがソフィアート・ガーデンで何かすると、必ず興味津々でチェックしに来ます。スコップなどで土を掘ったり剪定ばさみで枝を払ったりしているときは遠巻きに、私どもがその場を離れれば枝や地面に降りてきて、何か良いものがあるのではないかと細かく点検します。
小屋の工事などで大地を重機で掘り返す際も、休憩時間などには工事現場の道具にちょこんと羽を休めて、なんでもチェック。
人間なら「環境破壊だ!」「工事がうるさい」、などと文句もつけようというところを、野鳥たちは実に楽しそうに、自分たちのためのイベントとして考え、掘られた土から虫を探したり、工事現場の紐にぶら下がってみたり、シュロ縄を毟ってみたり、重機の上をお散歩してみたり・・・。

この文書の中には、とても感心させられる見方やフレーズがある。
特に、(小鳥は)、<「生来の楽天家」><何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」と解釈する天下一品の能力があります> <なんでもチェック>という指摘には、感心させられた。思い当たることもあり、人が教訓とすべきことも含まれている。
教訓とは、<何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」ではなく、「何があっても、それは自分たちを痛めつけるために権力者がやったこと」と解釈する(ある種の)社会学の見方に反省を迫るものだと思った。
思い当たることとしては、小鳥ではないが、カラスが、よく人がやることを見ているなと思ったことがある。
以前に、うちの犬の朝の散歩にいつもついてくるカラスがあった。時々ドッグ・フードも投げて与えて挨拶の印を送っていたが、通りかかった女の人に呆れた顔と無言の非難を浴びで、やめてしまった(このような私でも、ゴミ集積所にゴミをあさりに来るカラスには石をぶつけ、追い払っている)。
それが、数年ぶりに同じようなカラスが道端にいたので、犬用のビスケットの欠片を投げたら、びっくりして屋根の上に飛び上がった。そして、私達が少し遠くに行き振り返ったら、そのカラスは屋根から下りて来て、そのビスケットを食べていた。
カラスと仲良くすることはいいこととは思えないが、小鳥と性格を共有するカラスもかわいいところがある。