バラの季節

そろそろ、バラの季節
うちの庭や垣根のバラも、開花の準備。
でも、手入れをしていないので、病気になったり、虫に食われたりで、少し気の毒。

軽井沢のバラに関しては、「ソフィア・ガーデン物語」の5月10日のエッセイに、素敵な文章と写真がある。
http://www.sophiart.co.jp/messay2012023.htm
「軽井沢は、冷涼な気候と寒暖差から虫がつきにくく、色鮮やかな美しいバラ栽培も可能です。実際にバラの専門ガーデンも複数あります。もう少し足を伸せば長野県内、あるいは八ヶ岳方面にはバラの栽培最適地がたくさんあります。」とのこと、羨ましい。

傘がない

東京成徳大学の「青年文化論演習」の授業で、井上揚水の「傘がない」に対する副田義也先生の分析を紹介した(『遊びの社会学』)。1970年代に入り、学生運動が終焉して、若者の関心が社会的なことから私的なこと(恋愛や自分の心理)に移ってきたという分析である。
歌を聴いてもらおうとしたら、ひとりの学生が携帯(スマートホン)で、YoU-Tubeにアクセスし、歌をかけてくれた。料金もかからないという。本当に便利になったものだ。

授業では、彼は君(彼女)に会いに行くのか? 「君」や「雨」や「傘」は何を象徴しているのか?ということで盛り上がった。そこで、「今度カラオケで歌ったら」と言ったら、「こんな暗い歌、歌ったら、友達から何があったのと心配されます」との返事。
やはり、昔の歌は、時代遅れなのか。

http://www.youtube.com/watch?v=PRKFNbUWHjA&feature=related

日本高等教育学会第15回大会

私も会員である「日本高等教育学会第15回大会」が、6月2日(土)~3日(日)の2日間、
東京大学(本郷キャンパス)で、開催される。
既に、プログラムが、ホームページに出ている。誰でも無料で参加できる公開シンポジウムもある。
http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/taikai/

藤原新也のサイン本をいただく

藤原新也氏より、石牟礼道子との共著『なみだふるはな』(河出書房新社、2012年)のサイン本を贈っていただく。
(これは、私だけがもらったのではなく、CATWALKの会員の希望者に抽選で送られたものである。それにしても、高い倍率の抽選に当たるとはラッキー)

以前に、私は藤原新也氏のサイン会に並んだことがある。その時の様子は下記( http://6115.teacup.com/m83s/bbs/?page=8& より転載)

藤原新也のサイン会に行く2009年 9月14日(月)

いくらミーハーとはいえ、私の歳で、サイン会と行くというのは、気恥ずかしかった(しかも初めて)。でも、一度、藤原新也の実物を見たいと思い、神田の三省堂に、出かけた(サイン会は、11日の18時から)。1時間ほど早く着いたので、久しぶりに古本屋街を回ることがでた(まだ、古本屋街は健在であった.)
 20分ほど早めに行き、本(『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』東京書籍、2009年9月)を購入(2冊目)し、整理券をもらい(38番)、会場の脇の階段で並んで待つ折、見渡すと、8割方男性、2割方女性で、40歳台、50歳台の人が多かった。何やら共通の雰囲気をたたえた人達並んでいるのが、おかしかった。
 サイン会では藤原新也が、一人一人に、達筆で名前まで入れてサインをして話しかけ、握手までして丁寧に応対していた。藤原新也らしいと思ったが、同時に、有名人のオーラがなく、あまりに普通の人なので、びっくりした.
藤原新也は、サイン会について、次のように書いている(HPより転載)
<盛況 -今サイン会が終わって帰ったところだ。150名近くの方々が来てくれてサインをするとともに一人一人気を込めて握手をした。わざわざ遠くからこのために来てくれるのだから、何か得るものがないと意味がないからだ。以前にも書いたことがあるが、サイン会というものはかりにそこで100部や200部の本が売れたとしてもたかが知れている。私がなぜ率先してこのような一見無駄に思えることをやっているかというと、読者の顔が見えるのはこの場面をおいて他にないからである。作家というものはどこの誰かわからない世界に向かってメッセージを発信しているわけだが、折に触れ実際の読者の顔を見たいというのは表現者として正常な神経ではないかと思うのである。本屋の店頭で恥を忍んでこういうことをやる意味はそこにある。逆に言えば、そういうことに無関心な者の神経が分からない。>
 わたくし自身は、話しかけられるとは思ってもいなかったので、「本は読まれましたか?、どうでしたか」と聞かれ、きちんとご返答ができずに、悔しい思いをした。
 私の藤原ファン経歴はそれほど古くない。最初に読んだのが十数年前の『アメリカ』である。短期の旅行者でもない長期の滞在者でもない中期の旅行者の視点で、しかも長くインドを旅行したアジアの視点から書かれた『アメリカ』は、斬新で衝撃的だった。一瞬にして、ことの本質を捉えてしまうカメラマンの視点というのも感じた。愛読書だった江藤淳の『アメリカと私』などとは全く違った視点でアメリカを捉えていた。その後は、インド紀行関係、また現代世相批評関係、随筆、写真集を購入、読んだ。
 今回の本は、「あとがき」に書かれているようにいつもの本とは少し違う感じがする。読んでいて、じーんとくるものがあり、少し戸惑いを感じる。特に浦島太郎(「尾瀬に死す」)やコスモスの話しには、心動かされるものがある