若者の「状況志向」と「多元的自己」

社会学の浅野智彦氏の文章(「若者のアイデンティティと友人関係」)を読んだ。その要点を掲載しておきたい。
内容は、「流動化社会、消費社会における若者文化の特質」に関してである。これまでの社会学の理論、青年論の論が縦横にちりばめられていて、同時に浅野氏の独自の視点が提示されている。

①  アイデンティティを確立するためには、自分自身の内的な信念の一貫性と同時に、自分が社会に関わっていくスタンスや他者との付き合い方の指針の確立が求められる。
②  流動化社会、「流動的近代(リキッド・モダニティ)」になり、アイデンティティの決定のみならず、「その決定の指針の前提」についても各人が決定することが求められる。
③ 高い学歴を獲得しても、将来が保障されるわけではないことが示すように、学校の果たす役割は、相対的に低くなりつつある。
④ (大きな物語がない今)、局所的な関係ごとにその都度のよりどころを調達する「状況志向」が高まっている。「状況志向」には、「繊細な観察」が必要であり、「空気を読む」ことも求められる。あたかも、「波乗りのように、一つのよりどころから別のよりどころへとなめらかに移動し続ける」ことが必要である。
⑤ 「状況志向」には。「複数の状況(複数の場所ととき)を切り替えながら関係を管理する」ということが必要になる。「恋人を複数持ったり(期待の分散)」「ネタ的コミュニケーション」(目の前の人とのコミュニケーションを最優先する)などがその例である。
⑥ 「複数の顔を状況に応じて使い分ける」様相を呈する「多元的自己」もみられる。「多元的自己」は、「人間一般にみられる状況対応性と以下の二点で異なっている。第一に、複数の顔の間に一貫性を要求する傾向が低くなっている」「第二に、複数の顔を統合するための高次の視点が『多元的自己』にはない」
⑦ 「社会全体がリキッドなものに変貌しつつあるのだとしたら、若者がその関係や自己をリキッドなものに変えていくのは、いわば戦略としてやむをえない」
⑧ 現代、若者世界に、「家族と地域」と「学校」以外に、第3の極として 「消費の世界」が加わっている。例えば、ファッションは、「自己表現・自己確認のための切実なメディア」である。また「どのような音楽を愛し、どのようなアニメに感想するにか、そのことを通して若者たちはお互いにとって最も切実な何かを伝え合う」
⑨ 「消費文化と若者との不幸な関係」がある。消費文化は「資本の都合」に支配され、「自己の主体性や能動性もあり方も」そのような「消費行動がモデルにした」ものになり、「職業選択の過程に消費の論理が深く影響を与え」(「夢追い型フリーター」など)、大人社会に対する「対抗性と自律性」を持てなくなる。
⑩ 社会関係資本(Social capital)には、「結束型社会関係資本」と「架橋型社会関係資本」がある。「消費文化を軸にした趣味的な集団」を、「架橋型社会関係資本」として使うことにより、「公共性生の衰退」を食い止める「消費文化と新しい連帯の可能性」が生まれる。

(「若者のアイデンティティと友人関係」広田照幸編『若者文化をどう見るか』アドバンテージサーバ、2008 、p34-59よりのメモ)

勝ち組は自己中心的?

 「大学入学偏差値と人の良さは、ある値(真ん中あたり)から反比例する」と感じ、「これは冗談半分の仮説だけれど」と言いながら人前で話したことがある。「人の良さ」というのは曖昧なので、利己主義的傾向(愛他的傾向の逆)と言い換えてもいい。
受験勉強している時、友だちから遊びの誘いがあった時、せっかく誘ってくれたのだからと受験勉強はやめて友だちの誘いにのる「心やさしき」若者は、勉強時間の不足で偏差値の高い大学には入れない。そこは、冷たく断る利己的傾向をもつものだけが、高偏差値の大学に入れるののである。
もう少しゆるやかに言えば、受験勉強は個人でやるものであり、個人主義的傾向が強いものが有利であり、個人より集団(友だちも入る)が好きなものは、受験競争の勝者にはなれない。
 このように昔から感じていたが、同じようなことは、今日の新聞に掲載されていた。つまり、今日(2月28日)の朝日新聞の朝刊に「『勝ち組』はルールを守らず自己中心的」という題で、アメリカとカナダの調査研究の結果が出ていた。
「企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に優位に多かった」「赤信号を無視したりする車は、高級車ほど多い傾向も公道の観察から浮かんだ」と書かれている。
もちろん、この反対の事例も思い浮かぶ。今日も家の近くの公園で見かけた不良ぽい高校生は、煙草を吸い、周囲にごみを散らかして屯っており(注意したかったが、軟弱な私一人では、太刀打ちできないーこれも一種の利己主義)、偏差値は高くなさそうだが、人がよさそうとは思えない。チケット代が高いクラシックの音楽会の聴衆は、お金持ちだが、上品で、人が悪いとは思えないなど。
日本でも、偏差値や社会的地位や収入と人の良さ(愛他的傾向)との関係を、実証的に調べたくなった。
 さしあたり、自動車の車種(高級度=値段)と運転のマナーの関係でも調べてみようか(ベンツやBMWとカローラやサニー(そんな車種は今あるのか?)に乗っている人で、信号無視はどちらが多いのかなど)。その他、グリーン車に乗っている人と普通者に乗っている人のマナー(携帯電話で話している人の率は?)は、 バスや電車に乗っている人とタクシーに乗っている人のマナーは?など。(これでは貧乏性調査になってしまう?)

昔懐かしい曲(2)

宇崎竜童の率いるダウンタウンブキウギバンドをはじめて聞いたのは院生の頃、船橋の人工海浜で、売れないバンドが演奏していた時である。聴衆は数人だったと思う。上手なバンドだと思い、翌日も聴きに行ったように思う。その後「スモーキング ブギ」が流行り、バンドは有名になり、渋谷の「ジャンジャン」で一度聴いた以外、生で聴けることはなくなった。LPを何枚か買い、部屋でひとり聴いていたと思う。
今聴くと、院生時代の先の見えない、暗い憂鬱な気分を、懐かしく(?)思い出す。
その頃、柳ジョージとレーニーウッドもよく聴いた。

涙のシークレット
http://www.youtube.com/watch?v=gRBl0GOQHjg&feature=endscreen&NR=1

雨に泣いている
http://www.youtube.com/watch?v=r2Gnavsi2Ag&feature=related

昔懐かしい曲

今日、ユーチューブで、聴いた3曲 

1 井上揚水 with ジェイク・シマブクロ  心もよう

2 宇崎竜童 知らず知らずのうちに
http://www.youtube.com/watch?v=VIgNVeHcxmk

3 吉田拓郎 せんこう花火をください
  http://www.youtube.com/watch?v=UbAQjRErD0I&feature=related

老いについて(続)

老いについて、3つを追加しておきたい。

昨日は、あるプロジェクとで、青年社会学の浅野智彦さん(東京学芸大)や青年心理学の溝上慎一さん(京都大学)らとご一緒する機会があった。今一番旬の研究者と一緒だとそれだけで若返る。これから一緒に大学生に関するデータを分析し、今年の11月5日(月)に、東京で、大学生に関する公開のシンポジウムを開くことになり、楽しみ。

藤原新也は、老いの中の子どもらしさに関して、次のように書いている。

「石牟礼道子さんは、深刻な話をしながら、不意にふっと抜けたように笑う。それは「椿の記の海」のあの遠い童女の笑い。 私は机を挟んでその笑いに誘われ、意味もなく笑い合っている。 そうすると私は少年の自分を、ふと思い出した。その時、老いてなおその中で眠る子供こそが、生き続ける逞しさであり、支えであるということがはっきりとわかった」(shinya talk,2.26より引用)

水沼文平さん(中央教育研究所)より、次のようなコメントをいただいた。

武内先生の「歳を取るということ」には今年前期高齢者の仲間入りをした私も考え込んでしまいました。
「耄碌」の意味を辞典で調べてみますと、広辞苑には「耄碌」とは“おいぼれること”、漢字源には「耄」とは“年老いた人”“老いぼれる”、「碌」とは“ぽろぽろ割れてできた小石”とあります。
「ぽろぽろと割れてできた小石」とは言い得て妙ですね。
2011年の日本人の平均寿命は女性が86歳、男性が80歳、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳とありますから日本は世界有数の長寿国のようです。
私がこどもの頃「人生50年」という言葉をよく聞きました。
実際私は母方の祖父の死に際に会っただけで残りの祖父母は私が生まれる前に亡くなりました。
さて、多くの老人が呆けてしまうと、我儘になったり、奇妙な行動を取ったり、徘徊したりと、とかく問題を起こしがちです。
面倒をみる家族の苦労も並大抵ではありません。
仏教では「生老病死」を四苦と言っていますが、私はこれに「耄」を加え「生老耄病死」としたいと思います。
「耄」は人として生まれた以上は避けられないものであり、自分は年老いて必ず呆けて人に迷惑をかけるという認識を持つ必要があります。
そこで呆け予備軍の世代に提案したいことは、今のうちから遺言を認めておくということです。
呆けたら本来の自分を失うことですから、私の遺言は「ぼけたら面倒などみないで施設に送りこむなり、道端に捨てるなりしてください」という内容にしたいと思っています
世迷言になりますが、国歌にある「さざれ石」はもともと小さな石の意味ですが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指すそうです。
“ぽろぽろ割れてできた小石”になってしまい捨てられた老人たちが何かの触媒を用いて大きな岩に変化し、第三の人生を生きたり、世直し運動を展開したりするのはいかがでしょうか。