(小)鳥の性格

5月8日の「ソフィア・ガーデン物語」のエッセイ(「小鳥の性格」)の中に、次のような文章がある。(http://www.sophiart.co.jp/messay2012021.htm)

小鳥を眺めていると、人間と同様に、あるいはそれ以上に感情表現が豊かであることに驚かされます。
あの小さな(しかし体に対してはとても大きい)頭の中で、どのようなことを考えているのかわかりませんが、ひとつ言えることは「生来の楽天家」であろうということです。
何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」と解釈する天下一品の能力があります。人間の無造作な振る舞いに対しても、彼らは楽観的に利用します。使えるものは何でも使う、という態度で臨み、自分の都合の良いように解釈する天才です。
たとえば私どもがソフィアート・ガーデンで何かすると、必ず興味津々でチェックしに来ます。スコップなどで土を掘ったり剪定ばさみで枝を払ったりしているときは遠巻きに、私どもがその場を離れれば枝や地面に降りてきて、何か良いものがあるのではないかと細かく点検します。
小屋の工事などで大地を重機で掘り返す際も、休憩時間などには工事現場の道具にちょこんと羽を休めて、なんでもチェック。
人間なら「環境破壊だ!」「工事がうるさい」、などと文句もつけようというところを、野鳥たちは実に楽しそうに、自分たちのためのイベントとして考え、掘られた土から虫を探したり、工事現場の紐にぶら下がってみたり、シュロ縄を毟ってみたり、重機の上をお散歩してみたり・・・。

この文書の中には、とても感心させられる見方やフレーズがある。
特に、(小鳥は)、<「生来の楽天家」><何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」と解釈する天下一品の能力があります> <なんでもチェック>という指摘には、感心させられた。思い当たることもあり、人が教訓とすべきことも含まれている。
教訓とは、<何があっても「それは自分たちのために自然がしてくれていること」ではなく、「何があっても、それは自分たちを痛めつけるために権力者がやったこと」と解釈する(ある種の)社会学の見方に反省を迫るものだと思った。
思い当たることとしては、小鳥ではないが、カラスが、よく人がやることを見ているなと思ったことがある。
以前に、うちの犬の朝の散歩にいつもついてくるカラスがあった。時々ドッグ・フードも投げて与えて挨拶の印を送っていたが、通りかかった女の人に呆れた顔と無言の非難を浴びで、やめてしまった(このような私でも、ゴミ集積所にゴミをあさりに来るカラスには石をぶつけ、追い払っている)。
それが、数年ぶりに同じようなカラスが道端にいたので、犬用のビスケットの欠片を投げたら、びっくりして屋根の上に飛び上がった。そして、私達が少し遠くに行き振り返ったら、そのカラスは屋根から下りて来て、そのビスケットを食べていた。
カラスと仲良くすることはいいこととは思えないが、小鳥と性格を共有するカラスもかわいいところがある。