人間にとって音楽はどのような存在なのであろうか。私自身は音楽とはほとんど無縁の生活を送ってきたので、何か言う資格があるとは思えないが、現代の若者にとって、かなり大きな比重を占めているようなので、一度調べてみたいと思っている。
日本で子どもは、幼い時、ほとんどヤマハやカワイの音楽教室に通い、ピアノや歌を習うのではないだろうか。そして女の子のかなりの割合がそのままピアノを習い続ける。しかし、そのピアノが将来の進路や生活に結び付く人は少ない。音楽大学に進んでも、将来音楽の仕事で食べていける人は少ない(学校の音楽の先生やヤマハやカワイの指導員も含めても)。音楽専攻は、経済的見返りは少ないのである。(良家のお嬢さんということで、玉の輿に乗れれば別だが、その機会も少ない)。
一方、ポピュラー音楽やロックやジャズが好きで、バンドを組んだり、歌手としてやっていきたいという「夢をみる」若者も、数多くいる。日本に5万人いるという説もある。そのうち陽の目を見るのは、2ケタもいないであろう。それなのに、なぜ、そのような報われない「夢」を見続けるのか。
「夢市場」というものがあり、若者の「夢」を商売にしている人達がいるということを聞いたことがある。「夢」見る若者は、その人達に煽られているのであろうか。外在的にはなく、内在的にこのことを調べてみたいと、思っている。
音楽社会学も研究しているN氏に、そのような研究はないかを聞いてみたところ、下記のような返事であった。
<さて、お尋ねの研究ですが、音楽社会学系でないか、手の届く範囲で少し探してみました。音楽社会学の研究では、ポピュラー音楽を、階層の問題や市場社会との関係で検討したものはたくさんあるのですが、ご関心のようなものは、手元の文献の範囲では見あたりませんでした。ただ、ご関心どおりではないのですが、小泉恭子『音楽をまとう若者』(2007)勁草書房では、高校生のバンドを扱っています。将来に関するインタビューの分析なども少ししていますが、もともと、階層やジェンダーなど、大きな社会学的な問題に関心をもって取り組んでいるため、音楽に夢をかけて、どのようにプロに近づいていっているかとか、またはどのようにしてあきらめていったかとかを分析したものではありません。音楽では、クラシック音楽も含めて、そのような研究は少ないように思います。>
そこで、紹介された小泉恭子氏の本を読んでみた。私の関心とは違うが、下記のような分析は、面白いと思った。
小泉氏の分析によると、高校生が「好きな音楽」について語る時、場所や状況に応じて「好み」を使い分けている。女子高校生は、フォーマルな空間(音楽の授業)やセミフォーマルな空間(部活動)では「スタンダード」や「コモン・ミュジック」を語り、それを隠れ蓑に「パーソナル・ミュージック」を包み隠し自己防衛をし、自分の立ち位置や居場所を確保している。
音楽に関する論文では、岩田遵子「子どもの音楽文化」(『消費社会と子どもの文化』学文社2010)に、興味深い指摘があった。
岩田氏は、子ども特有のリズムは、学校の音楽の時間では生かされないと指摘している。地域で伝承されるわらべ歌では、「歌いあう中で子ども独自の表現が生み出され」「子どもたち相互の身体のリズム共有が深められる」のに対して、学校の音楽の時間は「子どもたちは教師のピアノや指揮に合わせなくてはならず、教師のリズムに乗ることが強要され」「子ども同士のリズムの共有が剥奪されている」としている。
若者の音楽志向は、失われた自分のリズムを取り戻す自己回復の運動なのであろうか。