世間の考えと教育界の考え方には、乖離がある場合がある。たとえば、道徳教育についての考えはその例だ。道徳教育は、今教育界では「特別な教科」として重視されている。その教える内容も、自分、他者との関係、社会との関係、自然や崇高なものとの関係に関して、世界のどこでも通用するような普遍的な「道徳項目」が挙げられている。 ところが、一般の社会では(特に文学者?)では、道徳(教育)は、人気がない。近代文学の研究者で有名な石原千秋氏(早稲田大学教授)は、道徳教育に関して、かなり激しい言葉で「必要ない」と言っている。
<人の心を変えたり1つの道筋へ方向付けしたりするのは、神か仏か悪魔に任せておけばいい。生身の人間が教室でやっていいことではない。><電車やバスの優先席でスマホを操作しないこと。これは単なるマナーの問題だろう。道徳は日常生活の中で身につけるものだ。教室で身につけるものではない。><私たち大人になると、みんな自分が甘ったれた若者だったことを忘れて、甘えは若者の専売特許だと思い込んでしまう。だから自分の中にある甘えにも気がつかない。そういう大人がもっともやっかいなのだ。なぜなら、他人に「道徳」を押しつけたがるからだ。>(石原千秋『なぜ「三四郎」は悲恋に終わるのか』集英社新書、2015、p142、p158)
教育社会学の立場からすると、道徳とマナー(や作法)の違いを冷静に分析し、学校の道徳教育の時間に何ができるのかを考えればいいということになるように思う。加野芳正編著『マナーと作法の社会学』(東信堂)は、緻密な考察をしている(一部転載)
<マナーは、「ヒトが自己あるいは他者のもつ動物性の次元になるべく直面しないですむように作り上げた一種の身体技法」と定義することができる。それは多くの場合、教育や躾を通して身体化される。マナーの精神の根底にあるのは他者に対する配慮であり、自分勝手な行動を抑制し、快適な市民生活を維持することである。><マナーは法と道徳の中間に位づく準ルールであると言われる。><道徳は内面的原理であり、それがルールやマナーと結びつくことによって、行為として表象される。>