犯罪的ない反道徳的行為が行われたとき、その原因(・動機)を個人に求めるのか、あるいは周囲の社会環境(状況、制度)に求めるのか難しい。その両方に求めるのが正しいのであろうが、その程度は、学問分野や論じる人によって違ってくる。教育学や心理学は個人の意識に原因を求め、社会学は社会環境に原因を求める傾向があるのだろう。マスコミは「そんな酷いことをする人がいるのだ」という驚きを前面に出し、社会的原因の方は付け足し程度にすることが多いような気がする。
最近、飲食のチエーン店で働くアルバイトの店員が、食品の衛生に抵触するような動画をネットで流す行為が問題になっている。それに対しては、そのようなことをする個人の資質を問題にする見方(特に報道)がほとんどで、社会的要因の方を問題にする論調はあまりないように思う。 藤原新也は、社会的環境(労働環境)の方に重きを置いた見方をしている。(下記shinya talkより一部転載)
<そこに動機があるとすればそれはおそらく彼らが携わる労働の虚しさと、虚しい労働に日々勤しまねばならない自虐ではないか。今回不適切動画の現場になったのは、いずれもそこに共通するのはチエーン店であるということだ。チエーン店と聞けば各店舗共通の細密なマニュアルがあり、そのマニュアル通りに人間が動かなければならない人間のロボット化が必須条件となる。またもうひとつそれはそこに人間関係が見えない。それは集団生活に必要な人間の絆やトラストや情の関係が築かれていない虚無的集団であると言える。加えて昨今の世の中の労働環境の劣悪さがこの虚しさに追い打ちをかける。そこではおそらく虚無的労働を低賃金で働かざるを得ない現代の典型的な貧困青少年のクラスター(房)が存在し、そのクライアントをあざ笑うような跳ね上がり分子の投稿動画を見て互いに傷を舐め合うように面白がる自閉集団が目に見えるようだ。>(shinya talk ;www.fujiwarashinya.com/talk/)
チエーン店で働く若者で、このような動画を投稿するものはほんの一握りであろうし、それに共感するものがどの程度いるのかわからない。実証的データ(エビデンス)が是非ほしい。 藤原の見方は社会的要因だけでなく個人的心理にも言及している。別の現象であるが、若者の働き過ぎを、「自己実現系ワーカホリック」という見方で分析した教育社会学の本田由紀のもの(『軋む社会』双風舎、2008,p87)は、社会的要因と個人的要因を絡めて考察したもので、このような分析ができないものかと思う。