学校や大学では書かれたものが重要で(価値があり)、話されたことは重視されない。教科書やテキストに書かれた内容は正しいことで、教師はそれを読み上げたり説明したりする。教師の話したことを生徒がノートに書くことも重視される。
大学教員の業績は活字になった論文や著作が評価され、その人の授業や話し方が評価されるわけではない。
そのような「書く文化」中心の学校文化の中に育つと、教師は書かれたものを中心に授業を展開するようになる。私が大学で受けた授業も、テキストや黒板の文字が中心で、先生の話し方が上手だなと感心するようなものはなかったし、そのようなことが重要とは思わなかった。
私のこれまでの大学での教員人生を振り返ると、とにかく書かれた優れた資料を探して、それの説明に終始してきたように思う。話し方を工夫したこともない。内容さえすぐれていれば、学生はそれに感銘を受けると考えてきた。
昨日(24日)、敬愛大学の教職交流会で、向山行雄・国際学部教授の講演を卒業生や学生と一緒に聞く機会があったが、その話し方があまりに上手で、皆それに聞き入り、時間の経つのも忘れるほどであり、話し方がいかに大切かを、思い知らされた。
向山教授は教壇の一箇所に立っているわけではなく、自然な感じで教室を回り、手ぶり身振りも入れて話し、皆引き込まれて話を聞いた。具体的なエピソードもふんだんに入れた話で、そこから一般的な教訓や理論を引き出していた。間の取り方が絶妙であった。
向山教授は、小学校の教師の経験もあり、学校の管理職が長く、講演も多く、また話し方はいろいろ工夫されてきたのであろう。落語を聞く機会もあると言っていた。
私ももう少し早く話し方の大切さを知り、自分の授業での工夫もすべきだったとだったと後悔した。
これから、小中高の教職のみならず、大学の教師にも話し方の教育が必要ではないかと思った。
「教師は声楽家のボーイストレーニングを受ける。教壇での教師の自然な動き、そしてパホーマンスは学生をリラックスさせる。教師は演劇家の演技指導を受けるべきであろう」とかって、大学の私語対策として書いたことがあるが(IDE,NO323、1991)、大学教師は、さらに落語家やお笑い芸人の指導も受けながら、話し方を学ぶのが必須ではないかと思った。