藤原新也の著書『渋谷』が映画になり、それがDVD化されるという。それは是非見てみたい。
ただ、昨今の母娘の葛藤だけでなく、草食化男子、特に草食化老人についても示唆されているらしいこと知り、ドキッとする。
(以下、shinya talkより、一部転載)
さて『渋谷』という小説は「お願い、わたしを探して」というコピーにもあるように小さいころからの母親の過干渉によって”わたし”を失い、ゆきずりの男との性交渉などによって満たされぬ愛情の埋め合わせをしょうとする娘の葛藤を描いたものだ。
この母の娘に対する過干渉というものはいまだ延々と続く家庭問題の永遠のテーマであり、大変はしょった言い方になるが、その母親の子供に対する過干渉というものは、ひとつには父親不在、もしくは弱体化した父性に起因していると私は考えている。
昨今草食系男子という言葉がよく飛び出すが、なにもそれは若年層に限った話ではなく、草食系中年、草食系壮年、はたまた草食系老年と、ニッポンの男性はおしなべて弱体化しており、古い世代の誰もが草食系男子を笑える状況ではないように思う。
おそらくそのことと関連している出来事のように思えるが、何年か前に知り合いに頼まれて赴いた会合で面白い経験をした。
その頼み事というのは何年かに一度開かれているらしい立教大学美術部OBの美術展を見て、その後の宴会において講演をしてくれというものだった。
そこで前もって画廊に赴き美術展を拝見したのだが、私はそれらの絵を見てなるほど立教大学の美術部というのはほとんどが女性によって構成されているのだなと理解した。
だが宴会の会場に赴いて驚いた。
その美術部員OBの大半が白髪、あるいは禿頭のいい歳をした男性だったからだ。
にもかかわらず美術展で私が見た絵画のタッチや色合いは女性のそれだったのだ。
私は講演をしながらも心ここにあらず、この人たちは一体何者?という思いが頭を巡っていた。
しかし講演を終え、帰路についているときはたと思い当たることがあった。
恰幅からすると、その老美術部員の多くは長年企業に勤め、その多くが定年退職しているものと思える。
そういう生活環境に思いをいたすなら、ひよっとすると人間の自我というものを押し殺ろさざるを得ない長年の企業勤めというものが彼らをして”女性的”メンタルに変えて行ってしまったのかも知れない。
ふとそのように思った。
つまり日本の父親の弱体化、あるいは女性が男の役割を担わざるをえないような家庭内における父性の存在感のなさというものは、この日本独特の就労様式に負うところが大きいのではないかと思うのである。[以下略]
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php