社会学の当たり前を疑う

社会学は当たり前を疑う学問だと思うが、その社会学自身の当たり前を疑うことをあまりしないのではないか。「社会の創造主は人間」という前提が社会学にはあることあまり自覚しない。大澤真幸のコラム記事を読んでそのように感じた。ルーマンは 社会学のその当たり前を疑い、別の見方を提示したという。

<私の考えでは、ルーマンが試みたことは、理論の前提から「神」を完全に排除したとき、社会はどう記述できるかの探究である。……というと、社会科学はみな神など前提にしていない、と反論されるだろう。/ しかし、どの社会理論も「人間が社会をつくる」と考える。このとき人間は、あたかも創造主のように社会の外に立ち、社会を操作できるかのように、思い描かれる。そう、「人間」という概念のうちに、ひそかに神の役割が転移されているのだ。/ というわけで、ルーマンは、徹底した反人間主義の立場をとる。彼は、理論から人間概念を追放した。社会システムの要素は人間ではない。では何か。コミュニケーションである。/社会システムは、コミュニケーションだけで成り立っている。>(「古典百名山+plus:116ニクラス・ルーマン『社会システム理論の視座』 (朝日新聞、1月15日朝刊)より一部転載」)

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