知識や知性の動的側面

アクティブ・ラーニング、つまり「主体的・対話的で深い学び」の重要性が盛んに論じられている。これは、静的ではなく動的なことの重要性の強調のように思われる。動的というのは、個人内に留められるのではなく、他者との相互作用(対話等)や社会とかかわりで、外に影響を及ぼすというものである。

知識に関しても、単に個人の中に蓄積されればいいというものではなく、その知識が他者や社会と交わり、影響を及ぼすというものである。学会の大会などは、まさに個人の知識の表明に止まらずその交換や共鳴で、そこで新たな知識が生まれ、参加者に共有される場である。学校や大学の授業もそのような知識の動的な創造、共有の場になるのが理想かもしれない。

内田樹の反知性主義者たちの肖像」(内田ブログ2020-09-03 )も、そのような文脈の中で理解した(以下、一部転載。これは知識ではなく、知性について論じているが)

 <私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。/ ある人の話を聴いているうちに、(中略)「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たち及ぼす力のことを知性と呼びたいと私は思う。・/ 知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。/ 個人的な知的能力はずいぶん高いようだが、その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼を生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にはしばしば起こる。きわめて頻繁に起こっている。その人が活発にご本人の「知力」を発動しているせいで、彼の所属する集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合、私はそういう人を「反知性的」とみなすことにしている。これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。> (http://blog.tatsuru.com)