渡部昇一『知的生活の方法』(講談社新書)は、若い時読んで感銘を受けた本である。
大学の助手をしていた時、助手の仕事はたいしたことをしているわけではないのに、なぜ研究ができないのだろうと悩んでいた。その時、上記の本を読んで、納得がいった。
研究は、鉄を熱して熱いうちに打つようなもので、熱するまでの時間が必要で、熱してからは誰からも邪魔されずに集中して作業(研究)に取りかかる必要がある。それが、鉄を熱し終わったと思ったら、それに水をかけるようなことが起こると、作業(研究)は進まない。最初の熱するところからはじめなければならない、というようなことを渡部昇一氏は書いていた。
大学の助手は、たいした仕事があるわけではないが、学科の研究室にいて、学生や院生の研究室への立ち寄りの相手をし、学会のことなどの電話での問い合わせに答え、教授、助教授から頼まれた事務的な仕事をこなしと、小さなこま切れの仕事を処理していかなければならない。その仕事は、いつ来るかもわからず、あたかもすり鉢の下にいて、途中で処理されず落ちてきた仕事を処理する役割を課せられていた(家庭の主婦も同じことかと思った)。
本を読んで、何かを考えようとすると、学生が「○○先生はいつみえますか?」と聞きに来たり、電話で「今度の学会大会はいつですか?」という問い合わせがあったりする。すると、熱しはじめた鉄に水をかけられたように読書や思考は進まない。少し熱したと思うと水をかけられ、その繰り返しで、読書や研究は一向に進まず、ストレスばかり溜まった。そのことを、渡部氏の本から教えられた。
また、渡部氏は、知的生活を行う為には、本を手元に置いておくことが極めて重要で、調べるために図書館などに行くと、思考が中断され、優れた研究ができないと書いていた。この点もとても納得でき、私の本集めの指針になった。渡部氏の思想的な本は全く読んでいないが、学問への姿勢には感銘を受けた。
渡部昇一氏とは全く面識はなかったが、私が上智大学に非常勤で教えに行った時、よく非常勤講師室にいらして、弟子達と話していた。これが有名な渡部昇一先生かと、少し離れた席から眺めていた。私が上智大学に奉職してからは、文学部の教授会で月に1回ご一緒したが、教授会メンバーは130名くらいいて、先生もほとんど発言もされなかったので、どのようなお考えで、どのようなお人柄なのか、全くわからなかった。
当時、上智大学で一番有名な看板教授と言えば、渡部昇一先生だったと思うが、教授会の中でそのような雰囲気は全くなく、上智大学が渡部昇一先生をどのように扱っているのかと不思議に思った(先生も近著で、一番落ち着く場所は、大学や教授会ではなく自分の書斎だと書かれていた)。
その渡部昇一先生が、ご逝去されたという記事を今日(18日)の新聞で読んだ。ご冥福をお祈りする。