歴史的な見方について

世の中に、歴史好きな人が多くいると思う。大変羨ましい。
恥ずかしいながら、私は「歴史音痴」である。歴史の面白さや見方が全く分からない。
「司馬遼太郎の本を読むと歴史の面白さがわかるよ」と教えてくれる人がいて、いつか挑戦しようと思うが、まだ果たしていない。

その原因を考えてみると、高校の社会科の授業に原因があったのではないかと思う。
私の通った都立日比谷高校では、国語と社会科の授業はほとんど生徒のグループ発表だった。生徒の小グループで割り当てられた箇所を自分たちで調べ発表するものであった。先生から歴史の見方など教えられるということはなかった。少なくても私は授業から歴史の見方をまったく学ばなかった。生徒の調べ学習から歴史の見方は学べないのではないかと思う
ただ、日比谷の卒業生が皆「歴史音痴」かというとそのようなことはない。多くの生徒は社会階層が高く、家でしっかり歴史観を親から学んでいたと思う(同級生に政治家の息子の町村氏や東郷氏や片山氏もいたし、親が音楽評論家の大木氏いた)。(今のアクティブ・ラーニングへの、私の不安はここにある)。
大学に入ってからの、社会科教育法の授業で、担当の教員から「歴史的な見方は高校までに学んでくるもので、大学に入ってから学んでも遅すぎる」と言われたのは、大変ショックであった。
ただ、大学受験の「世界史」は苦手だったわけではない。どちらかというと「世界史」は、私の一番得意な科目であった。山川出版の「世界史」の教科書に書かれていることを全部覚えれば、入試で60%の得点が取れると言われた。その通りにしたので、世界史の得点にだけ自信があった。
大学に入り、自分は歴史が得意なはずと思い、山川出版の教科書の編者で有名な吉岡力教授の「西洋史」の授業を選択したが、全然歴史が面白いとは思わなかった。3年次に本郷で歴史家で著名な堀米庸三教授の西洋史の授業を、西洋史専攻の学生と一緒に受講してみたが、とりとめのない授業(少なくても知識のない私にはそう感じられた)で、歴史の面白さはわからなかった。受験の歴史と学問の歴史は違っていたのかもしれない。歴史的センスを学ぶ臨界点があることを思い知らされた。

歴史の面白さや重要性はどこにあるのだろうか。私的(=社会学的)になるが、思いつくことをあげてみたい。
1 社会や人のあり様を、過去と現在で比較することによって、現在の特質を客観的に知ることができる。
2 歴史を学ぶことによって、現在は失われているが、過去にあったよきものを再認識することができる。
3「歴史は繰り返す」と言われるが、過去の歴史を知っていれば、過去の過ちを繰り返すことなく、よき現在や未来を設計できる。
4 ものごとの発生の起源にものごとの本質が含まれている。ものごとの発生の起源を歴史的に解明できれば、今の時代に見失われたものがわかる。
5 現代の社会は複雑で次に何が起こるかわからないが、昔はものごとが単純で史実も残っているので、出来事の原因結果を実証的に解明できる。それは現代の社会のしくみを知るうえで役立つ。
6 歴史の流れには連続性や規則性があり、それは直線だったり、放物線だったり、あるいは振り子や螺旋階段のようなものである。したがって、過去の歴史を知ることは、未来を予測することになり、大変有益である。
以上は、素人考えに過ぎない。歴史学者の説明をこれから読んでみたい。

子ども史の研究に詳しい深谷昌志先生は、次のように書いている
「温故知新という言葉がある。古き時代は過去の遺物ではない。過去の中に現在をとらえるのに役立つ新鮮な視点が潜んでいる場合が多い」(「子ども史からの素描」『子ども問題事典』ハーベスト社,2013、p.225)

学習指導要領は、学力重視と人間性重視の2つを振り子のように行ったり来たりしていると言われる。したがって、学習指導要領の歴史を知ると、今度はどちらの方向に振れるのかが予想できる。(『教育の基礎と展開』学文社,第6章、新田司執筆)

松尾知明氏によれば、多文化教育の骨幹をなす多様性をめぐる歴史的展開は、次のようである。
① 第2次世界大戦から1960年代までの多様性許容の時期(移民、難民の受け入れ、多人種主義)、
② 1970〜1980年代の多文化主義浸透の時期、
③ 1990年代以降の人種暴動やテロにともなう多様性排除の傾向、シチズンシップ重視の傾向と動いている
(松尾知明『多文化教育の国際比較』明石書店、2017、pp.191-195)

 歴史を知ることは、歴史の流れに身を任せることではない。松尾氏はアラン・ケイの次のことばを紹介している(前掲p.213)  「未来を予測するもっとも有効な方法は、未来をつくることである」