歴史への関心について

人はなぜ歴史に関心を持つのであろうか。ものごとの起源を知り初心に返るためや、未来を予測するのに過去からの流れを知る必要があるという理由によるのかしれない。ここにきて、いくつか歴史に関する記述を読んで、少し違った見方もあるのではないかと思った。。

 1つは、(7月20日のブログで紹介したが)村上春樹が『猫を棄てる』に書いている歴史観がある。<「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。(中略)一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。>

 2つ目は、朝日新聞デジタル7月25日に社会学者の大澤真幸が、司馬遼太郎の作品の解説をしながら、次のように述べていること。<「司馬氏が歴史作家として本当にやろうとしたことを、僕の言葉で言うと『我々の死者を取り戻す』ということだったと思います」「これはナショナリズムや愛国心とも絡んでくることなのですが、人間が『世の中のためによいことをしたい。公共的なことをしたい』と心の底から思うためには、『我々の死者』を持つことが必要です。『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく――。そんな確信があって初めて、私たちはこの世界に自分の居場所を得て、社会のため、他人のために生きていくことができます」

3つ目は、評論家の加藤典洋が、『敗戦後論』(ちくま学芸文庫、2015)で、太平洋戦争で死んだ日本兵の供養を、韓国や中国の犠牲者への謝罪や供養と同じようにすべきと言っているのも、日本人の歴史の継続という意味を込めているように思う。

4つ目は、1932年生まれ(87歳)の寺崎昌男先生(東京大学名誉教授)が最近『日本近代大学史」(東大出版会、2020)という500頁にも及ぶ大冊の歴史書を書き下ろし発刊されたことである。<ともかく蛮勇を振おうと思ってやり上げました。このところ文字通り蔟生しつつある若手の研究にも刺激されながら、これを書いておかねば瞑目できないと思って書きました。>とおしゃっていたが、日本の大学の歴史を、後世に引き継ごうという寺崎先生の熱い思いのなせる業であろう。

このように、「自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく」(大澤)ということ自覚がある故に、歴史に関心を持つということなのかと考えた。

日本人の過去になしたことを、良いことも悪いことも含め、次の世代に引き継いていくのが、歴史への関心である。 司馬遼太郎のなし得なかったことを村上春樹もやろうとしている、また多くの歴史家の仕事もそれに通じるように思う。

「私たち日本人は太平洋戦争の敗戦で、『我々の死者』を失ってしまった。『先に死んでいった人々のおかげで、今の私たちがある』と言うよりも、『その人たちのやってきたことを否定する』という形で戦後の歴史は始まったわけですから」「司馬氏の『愚かな戦争をしたが、日本人の歴史すべてが悪かったわけではない。我々の死者として受け継ぐに足る人々がいたはずだ』という強い思いが、戦国時代から幕末・明治維新へと連なる幾多の歴史小説として結実した。「司馬氏はこの作品(「坂の上の雲」)以降、太平洋戦争に至るまでの時期を歴史小説として書くことはなかった。それはなぜなのか。」頂点に位置し、現代に最も近い時代を舞台としたのが『坂の上の雲』でした」「しかし、『我々の死者の物語』を紡げたのはぎりぎりそこまでで、それ以降のことは小説としては書けなかった。」「太平洋戦争敗戦の時点から歴史をさかのぼっていくと、満州事変などが起きた昭和初期に問題があったことは疑い得ない。とすれば、その前の大正時代にも問題の兆しを見ないわけにはいかない。ぎりぎり、ポジティブなイメージで書けるのが日露戦争までだった、ということなのだと思います」「『日露戦争までの日本人はギリギリ、ポジティブに捉え得るのではないか』という司馬氏の問題意識は、誠実だし重要です。仮に日露戦争期の日本もダメだった、ということになると、幕末・維新以降の日本の歴史を全否定しないといけなくなるわけですから」「『我々の死者』を何らかの形で取り返さなければ、戦争で犯した失敗も取り返せない、という感じが、私たちの中には確かにある。司馬氏の最終的な狙いもそこにあったと思います。 「敗戦の屈辱を取り返すために、まずは豊かな国に追いつくということから始めた。それを達成すると、次はやはり、『日本人は何のために、何をよきものとして追求していくのか』ということを考えざるを得ない。そうなると、僕たちを歴史、時間の中に位置づけてくれる『我々の死者』が必要になることを、司馬氏は体で感じていたのでしょう」 「司馬氏が本当にやりたくてできなかった『大正・昭和の《死者たち》を取り戻す』という困難な課題にどう取り組むのか。僕たちが今、『坂の上の雲』を読む意味は、そこにあります」「ナショナリズムを乗りこえるには、『我々の死者』を捨て去るのではなく、現代の私たちと『我々の死者』との関係をきちんとつけた上で、その先に行く、という筋道が必要になります」 「戦前、戦中の日本を無批判に肯定する人も一部にいますが、それをやると逆に『戦後の日本』を全否定することになってしまう。問題があったことを認めた上で、我々の死者をどう取り戻すのか。司馬氏からのバトンを受け継ぎ、残された歴史の空白を埋めるのは、私たち自身の課題です」( 大澤真幸   朝日新聞デジタル7月25日 )