時代の最先端は、若者の心情や行動に表れるのかもしれない。鋭敏な若者やエリートの若者の心情や行動に表れる。したがって、若者を対象にした大量のサンプリング調査から得られる平均像からは、その時代の最先端や未来は予測できない。
そのようなことを、かって、社会学者の井上俊が言っていたように思う。
突出した若者の行動の背後には、心情を同じくする多くの若者が存在する。突出した行動は氷山の一角で、その氷山の下には多くの氷が埋まっているという見方は、精神分析などの心理学もよくする。
量的なアンケート調査ばかりやってきた私のような人間には、上の見方はにわかに賛同できないが、一理はあると思う。
藤原新也は、最近の若者の暴走(21歳青年の交番襲撃事件、22歳の青年の新幹線で殺傷事件、新潟の23歳の青年能力幼女を電車線路内遺棄事件、若い夫婦の5歳の幼女を虐待死事件、26歳青年による障害者大量殺害事件など)は、「社会の末端に位置し、そのしわ寄せの歪みをもっとも受けやすい二十代の若者の溜め込んだフラストレーションの暴発」「“暴発せずに”この過剰な格差社会の中で悶々と日々を過ごしている大勢の若者が日常的に存在する」と考察している。
四半世紀前のオウムの事件に関して、二人の優れた社会学者が、当時の若者の心情や行動とその時代的背景に関して、読み解いている。(朝日新聞 2018年7月8日朝刊より一部抜粋)
社会学者の宮台真司
オウム真理教の事件は、今の首相官邸や国会、そして霞が関に見られる「エリート」の迷走の、出発点だったと言えるでしょう。 事件を起こした教団幹部の多くは学歴が高い「エリート」。彼らの多くは、上昇機運に包まれた高度経済成長期に生まれ育ちました。
子どものころに抱いていた「輝かしさ」を経験できない不全感は何もオウムに集まった人たちだけの特徴ではありません。世代的に共有されていた。「自己啓発セミナー」の現場(には)、そうした感受性を共有した人たち、若い官僚や芸術家らが数多くいた。
かつてと違って「努力して貧しさを克服する」といった社会の中での地位上昇によっては解決できない「実存」の問題を、どう解決するか。
95年ごろには既に上昇の輝かしさが遠のき、一言でいえば「こんなはずじゃなかった」という感覚が少なくとも「エリート」の中に充満していた。
オウムは、社会的な地位達成で埋め合わせられない実存的な不全感を、宗教によって埋め合わせ、まじめな若者を引きつけた。単なる生きづらさを「ハルマゲドン」に象徴される「世界変革」で解消しようとした短絡にこそ特徴があります。
出発点は、まじめな若者の生きづらさ。だからこそ危険なのです。
(宮台の)『終わりなき日常を生きろ』は、「そこそこ腐らず生きていくことを「まったり」という言葉で肯定しました。
事件の半年後に始まったテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるように、若者は自己イメージを維持するために繭にこもるようになる。
ですが、「エリート」の迷走も「現実と虚構」の関係も実は変わっていません。 「エリート」のみならず、社会全体がオウム的になっているとすら言えます。
社会学者・大澤真幸
日本の戦後史は、理想の時代から虚構の時代へと変化してきた。理想の時代とは、社会全体に関してであれ、人生に関してであれ、何が理想の状態であるかのイメージが明確で(「平和と民主主義」「マイホーム」等)、コンセンサスがある段階である。理想の時代は1970年代初頭で終わる。理想のもつ説得力が失われ、理想が占めていた場所を、多くの私的な虚構(アニメ、ゲーム等)が占め、人々がそれらに耽溺(たんでき)する時代がやってきた。
オウムは、虚構の時代が極限に来ていたことの指標である。理想の枯渇は耐え難い。オウムは虚構をそのまま理想とし、その実現を目指したのだ。オウム信者がアニメ的世界を生きているように見える。
理想は一般に、何らかの未来の状態に対して建設的なものである。この建設的な側面をトータルに否定し、破局を導く無目的な破壊の力。その破壊が、偽善的な理想をことごとく拒絶する真に崇高な理想に見えるからだ。
このトータルな破壊を組み込んだ妄想(虚構)が世界最終戦争(ハルマゲドン)であり、破壊力の源泉が最終解脱者の麻原彰晃である。彼らのテロは最終戦争の一環である。要するに「最終戦争を戦っていると思うとワクワクし生きている実感がする」ということだ。
当時の知的な若者がどうしてこんな虚構=理想に惹(ひ)きつけられたのか。戦後日本は、普遍的な価値をもつ理想を構築し、我がものとすることに失敗したのだ。
敗戦の屈辱と経済成長の実感がある間は、理想が地に足を着けていない状態を意識せずに済んだ。しかしそれらが消えたとき、崇高な理想がどこにもない砂漠のような状況が出現する。これに対する過激な反応がオウムだった。
あれから23年、困難は克服されたのか。そんなことはない。状況はより深刻だ。今日オウムのような集団が現れないのは、誰もが、近い将来ほんとうに破局が訪れ得ると知っているからだ。このまま行けば大丈夫、と思っている人はほとんどいない。
現状のまま続ければ、日本は、地球は破局的結末の到来を避けられない。労働力不足による福祉制度の根底的崩壊か、極端な格差か、核戦争か、生態系の破壊か、具体像はわからないが、そのいずれかが起こるということは、現実的な予想の中にある。
それなのに、私たちは、破局の回避という最小限の条件を満たす理想社会への道すら見出(みいだ)せない。