歌人の山田航の「『物語』にはどうもノレない」(朝日新聞1月23日朝刊)という文章がなかなか面白しろかった。「どうも私は散文を読むセンスが欠落している」書いている。私自身は 詩歌や音楽を理解するセンスの欠落しているので、この山田航氏とは真逆の位置にいるのであるが、「文章において一番重要だと感じるのがリズムや音韻、その次がイメージ」という指摘には、共感を覚えた。
私は若い頃は多くの小説を読んだが、齢をとるにつれ段々小説を読まなくなってきた。ストーリーを追うのが、齢とともに面倒になってきたせいでもある。「小説は、散文でストーリーを書こうとする」と山田氏は書いている。ストーリーは映像(ドラマや映画やマンガ)で見た方が理解が早い。小説は、時代の速いスピードについていけなくなったのではないか。
評論やエッセイはどうであろうか。それらは小説の核心部分を、短い鋭い(あるいは柔らかい)言葉で的確に指摘し、イメージを膨らませ、批判する。昔、文芸評論家の吉本隆明や江藤淳の文章の切れのよさやリズムに胸のすく思いをしたことがある。
さらに学術論文はどうであろうか。特に社会科学、人文科学系の学術論文について考えてみると、文章のリズムやそこから喚起されるイメージなどは重視されない。それよりは、論理性や実証性や方法論が重視される。したがって、学術論文を読んで、退屈さを感じても、楽しさを感んじたり、豊饒なイメージを膨らませたりすることはない。
「学術論文は、論理や実証性でストーリーを書こうとする」のではないか-これ自体正しい、価値あることとして誰も疑ってこなかった。しかし、それはそんなに価値のあることなのか。それより、感覚を刺激するリズムやイメージの方が大事という見方をしてみてはどうか。研究者もエッセイや詩歌で何かを訴えた方がいいのではないか、ーそんなことを山田氏の文章から考えさせられた。もちろんこれは極論で、受け入れられないと思うが、せめて研究者も書く文章にリズムがあり、読むと心地よく、イメージも膨らむものが多くなればいいと思う。