国の求める教員像(中教審答申も含める)、都道府県の求める教員像(教員採用試験も含める)をこれまで、授業で見てきましたが、今日は別の観点から教員像を考えてみたいと思います。
それは、文芸(映画、小説、漫画)に描かれている教員像の検討です。それを検討することは、次のような2つの意味があると思います。
第1は、それらは、国や教育委員会の型にはまった理想的教師像とは違って、「教師という人間をその生活全体において丸ごととらえた」教員像(原田彰)が描かれているからです。現実の教師の、教師役割とその役割からはみ出す行動との葛藤を、文芸作品は描いています。
「二十四の瞳」の大石先生には、「師範タイプ」(権威主義的)からはみ出す「茶目っ気」があり、その葛藤がよく描かれています。それが、現実の教師らしさでもあります。(一部ビデオを見せる)
第2に、「理想的教師像」を構成している価値観を一度解体して再構成してみる必要(山田浩之)があるからです。
特に漫画に描かれる教師像は、理想的教師像を揶揄し、教師の隠れた欲望をストレートに描くことにより、教師像の再構成を促します。1960年代末の「ハレンチ学園」は教師という存在を貶める役割を果たしました。そこからの再構築が必要です。
また、子どもに人気のあるキャラクターには、子どもの教師への願望が描かれています。(いくつかのマンガを紹介)
この分野の研究としては、原田彰『教師の現在―文芸からみた子どもと教師』(ハーベスト社)、山田浩之『マンガが語る教師像―教育社会学が読み解く熱血教師の行方』(昭和堂)があります。
皆さんも日頃見たり読んだりする映画、小説、漫画に描かれた教師像がどのようなものなのか考え、そこから教師像を描いてみてください。
私自身は、思考が硬いのか(?)、上記の第2の教師の欲望等を極端に描くことにより隠れているものを暴露(教師を貶める)するという方法に、多少違和感があります。確かに、極端を描くことによりなんとなく感じていたことの意味を白日のもとに晒すというのは効果的な方法だと思います。
マドンナの「マティリアルガール」の映像に見られるように、「多くの宝石をみにつけ、濃い目の名メイクをし、がらくたぽいものを身につけることによって、パロディによってえられるものと同じ視点を読者に与える。極端さによってわれわれはそのイデオロギー性に気がつくようになる」(ジョン・フィスク・山本雄二訳『抵抗の快楽』(世界思想社)。
女性のファッションや化粧のもつ意味やイデオロギー性を、マドンナの極端な表現が暴露しているというのは、理論的にはよくわかるのですが、私の感覚がついていけません。
皆さんの感覚での捉え方も聞いてみたいと思います。今は「お笑いブーム」ですね。それは、極端を描き、硬い囚われからのからの解放を、笑いのうちに求めているということでしょうか。
今日は、現実の教師像について、その捉え方の方法とともに、いろいろ議論できればと思います。