幸運と不運の関係

私のようにいつも時間ギリギリでバスや電車に乗っているものに取って、2~3秒の差が、幸不幸を分ける。バス停にバスが着く時間と私がそこ辿りつく時間は同時と計算して家を出るのだが、出る前に忘れものに気がついたり、バスが定刻より早く来ると、それに乗れず10分は待つことになる。そのような日に限り、駅でも電車が出たばかりで10分待つことが多い。そのようにして、予定より20分~30分遅れ、授業や会議に遅れることになる。
でも、逆にギリギリで、間にあった時の快感は忘れられず、いつもこの攻防を繰り返している。

そのような幸不幸はその日限りのものであるので、たいしたことはないであろう。入学試験の合否のようなものは、そうはいかない。一生その学歴(学校歴)を背負えるかどうか、あるいは後1年(ないし何年か)その為に努力しなければならないか(ただし、1年努力したからと言って入学が許可される保証はない)は大きな違いである。
前の大学に勤めていた時、学部の入学試験や大学院の入試の合否の判定をする時、合否の境目の人への判定をする時、教員の「軽い」判断が、その人の一生、ないしこの1年の生活を左右するかと思うととても、気が重かった。
「ここに入学したからといって、いいことがあるとは限らないよ」と、応募者に言いたかった。

藤原新也は、最近のブログで不運と幸運の関係について次のように書いている。

<不運と幸運の天秤―抽選に当った人の喜びは、当らなかった人の落胆の引き換えのようでもある。まあ私自身は縁日のくじ引きのような遊びとしてやったわけだ。(中略)今月中に本が届かなかった人は、その欠運の分だけ、将来にいいお返しがある(神様は幸福と不幸の両皿の天秤を持っていて、人生のさいごには帳尻が合うようにしている)のでそれを楽しみに。
これは私のこれまでの生き方でもある。
特に旅などをしていると、幸運不運が折り重なる津波のようにやってきて、いちいちそれに一喜一憂していると身が持たない。というより、幸運と不運は相半ばしており不運の次には必ずいいことがあるという旅の法則のようなものを体現して来たから、悪いことがあると、一瞬べつのところで灯がともるという前向きの気持ちにもなる。
しかし、負の連鎖という言葉もあるように不運を幸運に転化する楽天性と気力がない場合、不幸の次に必ずいいことがやって来るとは限らない。やはり何を呼ぶかはその人の責任なのである。>(CATWALKからの引用)