小学校英語について

放送大学の院生で、私が論文の作成を手伝った院生がふたり、小学校の英語教育について、メールでやり取りしていた。ふたりはこの問題に素人ながら(Aさんは公立小学校運営委員,Bさんは日本語教育に関係している人)、興味ぶかい内容なのでで、本人たちの了解を得て、紹介したい。(放送大学の大学院卒業生は、いつもこんなに格調の高いメールのやり取りをしているのか、と感心する)
小学校の英語教育はまだ、模索状態なのであろう。私の勤める敬愛大学国際学部こども学科は、英語に強い小学校教員の養成を目指している。

Aさん
 公立小学校で英語活動が導入されましたが、10月10日にオーストラリアの姉妹校の児童・先生が来られることになり、付け焼刃ですが、R(語学学校)に通い始めました。
英語指導員の方はいるのですが、会話する機会が無いとも限らないので、一日2~4コマ、当日までに40レッスン、詰め込んでいます。耳は慣れてきましたが、学校の制度など、日常会話では済まない要素が多いので、やはり、家での英作文も欠かせません。
英語教育、というと、コミュニケーションか文法重視かと2者択一的に論じられることが多いのですが、両方必要だと改めて思いました。
語学の勉強は難しいものですね。また、世田谷区は「日本語特区」ですが、「日本語」か「英語」かの2者択一ではなく、これからの時代両方必要だと感じます。限られた授業時間の中、義務教育も考えなければならないことが山積していますが、とりあえず、私は目の前のことの対応に、あたふたしています。
Bさん 
「日本語教育」に関わった、関わっている者の意見・感想・経験として気になっていたことなどメールさせていただきます。
まず私自身の英語力の基礎は、中学時代教科の英語は100%マスターしました。あとは社会人になってから話す練習をして日常会話的なことは力づくでとうにかしてしまった。(いまはどんどん忘れる一方です。)
日本語学習者をみていて、日本語を着実に力をつけるのは自分の勉強スタイルを持っている人。母語できちんと読み書き、話ができる人、だと思います。母語は獲得して、第二言語は習得するもの・・・といわれます。第二言語習得では、幼い頃から第二言語を使う環境あれば自然に身につけることはできるとはいいますが、一方で大人になってからでも自分の頭で考え習得することでかなりのレベルまで第二言語を習得できるとも言われます。大人は母語レベルまで第二言語を習得する必要のある人は限られているので、「かなりのレベル」で十分、とも思うようになりました。
そこで日本の子供たちにはまずその母語をきちんと獲得してほしい、と思います。学校で4技能をきちんと身につけてもらいたいですし、日本人のくせに敬語も使えない、外国人の日本語のほうが きちんとしている・・・なんてことには なってほしくありません。
 日本の大学生に接する機会があり、私に対し甘えがあるのか幼稚な日本語や安易なメールの文章にがっかりすることもあるんです。コミュニケーション力とかストラテジーとか言われますが、社会全体がそういう方向に動いていることも否めませんが、考える、想像力を働かせる機会が減って、それらの力がついていないのだろうか、と考えさせられます。
これからは日本人も英語をきちんと話せるようになってほしい、とは思いますが、学校の中で、果たして その教育ができる先生がちゃんといるのか、という疑問もあります。そしてなにより 母語はきちんと習得してほしい・・・と感じるこのごろです。以上 つれづれなるままに書いてしまいました。
Aさん
私はといえば、学生の頃英語は得意な教科と言えましたが、海外生活を経験したにもかかわらず、「会話ができる」とは程遠い状況です。何度も、今度こそと思いながら挫折をしてきましたが、ここ最近、自分の立場もあって、ようやく気合が入り、まさにBさんのおっしゃる「力づくで」、を、実感し実践しているところです。しかし、「力づくで」できるのは、やはり学生時代の基礎基本があったからで、状況によって例文の暗記を積み重ねていく「日常会話」とはちがったアプローチで英語を「習得している」のではないかと、今の状態を客観的に分析しています。
S区の教育ビジョンが第一に掲げる子ども像は「世界に羽ばたくこども」ですが、「日本語特区」を申請し認められています。Bさんのおっしゃるように、「教科日本語」は、日本人として母語と文化的素養をしっかり持った上で、他国の言語や文化を学び、世界に羽ばたいてほしい、という思いがあるからです。S区では、いままで小学校教員免許の取得に必要のなかった英語の指導力のために、現職の教員の研修もありますが、海外生活の長かった帰国子女や海外赴任から帰った家庭の主婦も、区で行う研修の他に自発的に(自腹で)英語の教授法について学びに通い始めた方もいます。
外国語を学ぶ時に、母語の力は切り離せないというのはBさんのおっしゃる通りだと思います。
また、カリキュラムを作る側や教える側の、コミュニケーション力か文法かと偏ることの無い、意識の高さが求められますね。私としては、学校教育として、小学校とはいえ「会話」ではなく「学問」としての「外国語(英語)」を教えてほしいと思います。国が定める法律や制度、自治体(現場)の意識の高さと実行力、上手くかみ合っていかないと結果はなかなか形になって現れないのではないでしょうか。メールをありがとうございました。私も思うところをまとめて書くことができました。
Bさん
小学校での英語教育の問題は、単に「英語」だけの問題ではなく母語であったり、第二言語習得理論であったり、子供の進路をふくめた将来などさまざまな問題が含まれていると思います。下手な英語教育をして、それがまったく実にならなかった、なんてことにならないようモデルクラスなどを選んで、ネイティブ教師によるイマージョン、サブマージョン教育をしたり中学から集中的に勉強させたり・・・。(おそらく 公立の一貫校のようなところじゃないと、受験がネックになりますね。)語学にも適性があるので、クラスの中には 英語が入ることを好まない子供もいるでしょうね。正規クラスでなければ、希望者を募って・・・とか。国の制度が出る前に、さまざまな試行をして その結果をふまえさらに前進・・・ということができるといいですね。
私の考え方はやや悲観的かもしれませんが、臨界期仮説も考えると、子供の頃の母語獲得、第二言語習得は下手をしたら母語の獲得すら危くなります。(今後 日本語が国際語となるためにより単純になる可能性もあるかもしれませんが。)母語獲得は個人のアイデンティティに大きく関わるとも言われています。当然 日本のように 国内で 日本語以外の言語が公的に使われない国での第二言語ですから、せいぜいジャパングリッシュなんて できるだけでもすごいのでは、と思います。ただ、人間の品格には 言語をきちんと使える(正しい文法)ことが欠かせないと思います。おかしな言語を使っていては、日本の国際的な立場もどうなるか心配です。一方では 今後、日本は外国人とともに生きていかなければならない、といわれています。外国人への日本語教育と同様に第二言語教育は 将来を見定めて長期的に考えなければならないことだとあらためて思いました