今日(13日)は、敬愛大学のこども学科の1年生向けの「教育原論」の第1回目の授業。
千葉県の小学校教員を目指す学生が多い(大半)ので、千葉県教育委員会の求める教員像(*)や千葉県の小学校教員採用試験の倍率(2.8倍―多分全国一低い倍率)や教員採用試験の内容(1次は教職教養60点、専門教科100点、集団面接40点等)の内容の資料を配り説明した。
*千葉県・千葉市が求める教員像
(1)人間性豊かで、教育愛と使命感に満ちた教員
(2)児童生徒の成長と発達を理解し、悩みや思いを受けとめ、支援できる教員
(3)幅広い教養と学習指導の専門性を身につけた教員
(4)高い倫理観を持ち、心身共に健康で、明朗、快活な教員
それに対して、学生たちは神妙に聞いていたが、それとは別に、「教育原理」という授業の内容に関連して、大学における学問いついて、鷲田清一氏の言葉(朝日新聞,2016年4月7日、朝刊)を資料として配り、説明した。
つまり、教育の原理を学ぶということは、試験や実践に役立つことを学ぶというよりは、教育について歴史的、哲学的、社会学的に考察するということである。鷲田氏の言葉で言えば、「長いスパンで見るとか、根源的な原理を探す」ことや「立体的に見る」「視座」)から教育を考えるということである。
学生の授業の感想(リアクション)を読むと、後者(大学における学問の意味)に関しても、理解を示してくれる学生が多く、心強く思った。
全ての研究は「文」に通ず 哲学者・鷲田清一
文系の「文」は、言うまでもなく文化の「文」です。その研究をするから文系です。そして、僕に言わせると、大学の研究は突きつめればみな文系につながります。
たとえば、医療の技術は医学部でやっていますね。病気だとか治ったとか、数値で決めるけれど、そもそも健康と病の差って何なのか。それを考えるのは文系の学問です。都市工学は工学部ですが、都市生活の豊かさって何なのかと考えるのは文系です。反対に、心理学は文学部にあることが多いけれど、実験して統計をとって分析して、と理系の手法で考える学問です。
文と理は対立する学問ではないんですね。一つのことを両面から探るのが学問なのです。もっと言えば、言葉の意味でも対立しません。文は織物の「文(あや)」、理は石の「肌理(きめ)」、どっちも模様、ないしは筋のこと。見極めようとするものは同じです。だから、大学ではみなが文を学ぶんだと思ってください。ちなみに、文化の文に対立するのは「武」です。
そう考えると、危機にあるのは文系学部ではなくて「文化」であり「文」です。物事をものすごく長いスパンで見るとか、根源的な原理を探していくというのが文の特徴ですが、その評価の物差しが短期的になってきました。すぐに成果が出るかでお金の集まり具合が違ってくる。腰を据えてやる研究の予算はどんどん削られています。それに流されたんではよくない。
国家百年の計といいますが、100年先を見通すのは、信念があっても容易にできるものではありません。仕事がある人は、いまの課題で精いっぱい。そこで学問なんです。
大学というところは、目下の仕事に取り組む人の代わりに、あるいはその委託を受けて、役に立つか立たないか分からないことでも必死に探求するところです。100年後にどういう社会になっていればいいのか、いま何をすればいいのかと考えるときに、歴史学や哲学は数千年前までさかのぼって、具体的な事例、論理的な可能性を丹念に調べる。そして、短期的な視野とは別の可能性をいまの時代に示せるよう準備しておく。それが学問の役割です。
一つのことを徹底的に考え抜いてください。その問題の解決のためにあらゆる方法を試し尽くす。すると、後で別の課題に取り組むときもその可能性と限界がよく見えてきます。
視差という言葉があります。見る目が二つあって、ものは立体的に見えます。幅広い視差を持つ、でかい人間になってください。物事を多くの面から見られる人、多くの人に思いをはせることのできる人に。
いま大学で学び始めようとする君たち。どうぞ「文」を究めてください。(聞き手・村上研志)(朝日新聞,2016年4月7日、朝刊より転載)