大学で学ぶ処世術

大学で使われる教科書は、高校までのような国の検定を受けたものではない。大学の授業を担当するひとり一人の教員が勝手に選んだ本が使われる。また、大学の成績評価も、相対評価ではなく、担当教員の独自の絶対評価である。それだけ、大学教員には自由裁量に任されている(=学問の自由)。
大学教員は、よく言えば一人ひとりユニーク、別の言い方をすればかなり「変人」な人が多く、なかには「深海魚」と言われるどのような大学改革には動じない教員が一定程度存在する。
しかし、今の大学や教員に対しては、文部科学省からじわじわと改革の圧力をかけている。シラバスの開示、個人研究費の削減、競争資金の増大、授業評価、業績評価、FDなどである。その為、大学の教育の画一化、標準化もすすみ、どこの大学に行っても、またどの教員が担当しても、授業の内容や成績評価は変わらないという事態は進行している。
確かに、優れた教員の授業が、他の教員にも真似され、授業内容や方法の共有化や成績評価の標準化が進むことは、大学の授業改革になると思われる。(かって、学校では、向山洋一の「教育の法則化運動」が盛んだったこともある。そこでは優れた教育技術を出し合い、共有化し追試された。今大学ではアクティブラーニングの手法が盛んに推奨されている)。
しかしそれは、どこか自由な大学のあり方にそぐわない気もする。また学生の社会性の形成に有効にはたらかないような気がする。その理由は以下。

大学教員が一人ひとりユニーク(変人)ということは、学生にとっては、多くの個性的な教員の授業を取り、その個性的(=理不尽)な教員の要求に答えることにより、卒業に必要な単位や成績を得るということである。ひとりの学生が卒業単位修得のために関わる教員の数は、50人を超えることであろう(卒業最低単位126単位÷半期の授業2単位=63科目=担当教員63名)。このことは、社会に出てから、さまざまな上司や同僚や顧客と付き合い、その理不尽な要求に対処する術(処世術)を、単位習得を通して、大学教師との関係から学んだということである。大学教師の個性がなくなり画一化しているようであれば、学生は多様性に対処する処世術を、大学で学べないことになる。

追記
上記は、私の経験に基づいた主権的な意見である。大学の事情(状況)が違えば、違う意見になる。知り合いのKさんから下記の意見いただいた。

<教育困難大学は、科目選択の幅が狭いです。東大のように多数の科目が開講されているわけではありません。よって、ある先生に落とされた場合、他の先生の科目で単位をそろえるという逃げ道が狭い印象を持っています。履修者の80%を落とした教員がいます。学生の低学力ばかりが強調されますが、教員側の責任が追及されることはほとんどありません。経営者の責任も追及されません。教育社会学者は中退問題を貧困問題などに結びつけますが、中退問題の背後にある教員の責任、大学ガバナンスへの関心が薄いです。教育困難大学における「ワンマン理事長」および形骸化した理事会こそが、諸悪の根源とみています。いわゆるガバナンスの問題です。「企業は誰のものか」という問いはよく聞かれますが、「大学は誰のものか」を問い直し、教育困難大学における「公共性」を再確認する必要があるでしょう。>