多数派の常識の吟味が必要(『内外教育』9月19日)

社会学、教育社会学は、自己言及的(自己反省的)な学問である。独自な見方を確立しようと努力するが、同時にその見方が正しものかどうか、いつも自己検証を怠らない。結果的には多数者の意見に近い常識的な見方をすることが多いが、その常識が正しいものなのか、そのように考える根拠は何なのかを追求する。同じ文化の中で育っていると、その常識を疑うことは難しい。常識の自己検証の為には、異文化に接しその異文化の視点からも見て考えることが必要である。それは、多文化的視点、異文化間的視点と言われるものである。以前にブログに書いたことであるが、そのことを、9月19日発行の『内外教育』の「ひとこと」の欄に書いた。(下記がその原稿。字数の関係で、実際の掲載内容は少し違っている)

多数派の常識の吟味が必要

多数者(マジョリティ―)にとって常識で、それを深化させることは疑いなく善であることが、少数者(マイノリティ―)にとっては、悪とは言わないまでも善とは思えないということはさまざまある。/たとえば、内閣府の「やっぱり、家族っていいね」という標語は、暴力の絶えない家族に育った子どもや家族で虐待を受けている人にとっては、「家族って本当にいいものか」と感じることであろう。/親が教育熱心で塾通いし高い教育を目指すことが当たり前の多数派の子どもたちへの目標達成や努力の奨励は、貧困にあえぐ家族やヤングケアラーの少数派の子どもの実態にはそぐわない。/学校の共同性や協働性を推奨する教育論に関しては、集団生活の苦手な子どもや、学級集団でいじめにあっている子どもたちは、違和感をもつことであろう。教育の個別化も考えたい(フリースクールやホームスクーリング等)。/現在のデジタル化の進む中で、紙の本の大切さその味わいの深さを説く言説に関して、多くの人は賛成するであろう。しかし、それは少数の障害者の立場からすると、健常な多数者の傲慢に過ぎないと感じる場合がある。今回芥川賞を受賞した市川沙央の小説「ハンチバック」の主人公は、次のように述べている。/〈厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。/本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てることを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。>/多文化教育、異文化間教育の分野は、このような多数派の常識を、少数派の視点から再吟味する研究や実践をすすめている(松尾知明『多文化教育がわかる事典』明石書店、2013,『異文化間教育事典』明石書店,2022、)。不登校児の視点からの学校文化の見直し、自文化中心主義の克服、外国籍の子どもの教育、ジェンダー平等教育、特別支援教育、教育のデジタル化など。/これからの多文化する社会の中にあって、自分とは異なる多様な文化を認め、共生をめざす文化多様性の教育や実践が必要である。