多数派の常識の吟味が必要

多数者(マジョリティ―)にとって常識(当たり前)で、それを深化させることは疑いなく善であることが、少数者(マイノリティ―)にとっては、悪とは言わないまでも善とは思えないということはさまざまある。

例えば、内閣府の「やっぱり、家族っていいね」という標語は、暴力の絶えない家族に育った子どもにとっては、「家族って本当にいいものか」と感じることであろう。朝日新聞の8月28日のオピニオンの欄に、父親から日常的に暴力を受けていた27歳の女性は、「家族と暮らすことが最善とは思えない」と書いている。

また、現在のデジタル化の進む中で、紙の本の大切さ、その味わいの深さを説く言説に関して、多くの人は賛成するであろう。しかし、それは少数の障害者の立場からすると、健常な多数者の傲慢に過ぎないと感じる場合がある。今回芥川賞を受賞した小説「ハンチバック」の主人公は、次のように述べている。

〈厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢(ごうまん)さを憎んでいた〉

このように多数派の常識を、少数派の視点から再吟味することは、きわめて重要である。