ものごとを見る見方には、鳥観図と虫観図の2つがある。鳥観図は、ヘリコプターに乗って森を見下ろすようなもので、虫観図は地上を這いずる回る虫の視点で木の葉1枚1枚を見るようなものである。どちらも同じものを見るにしろ、見えるものが違っている。でも目指すものは、普遍性である。
普遍性を探すという面では、もう一つの方法がある。それは、一つの場所から地下を深く掘るという方法である。どの場所であろうと深く掘っていくと、地下水に行き当たる。それが普遍性である。ケースを扱う研究やカウンセリングは、個別を扱いながら、多くの人に共通する普遍性(地下水)を探ろうとする。
そのような個別を深く掘り地下水を探すという方法は、吉本隆明がどこかで言っていたように思う。同じことを村上春樹が言っているとのことを内田樹のブログから知った。それ箇所を、転載しておく。(blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html )
「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、64-65頁)「「書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでももっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりに個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょう。」(「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」文藝春秋、2010年、155頁)