何かの問いを発することは重要だが、問いには必ず前提があり、問う側はその前提に無自覚のことが多いが、その前提こそ重要だということができる。
内田樹は、ある週刊誌からの問いに対して、その問いを聞いて、記者の資質に問題があると述べている。その一部を転載する。blog.tatsuru.com/2020/04/10_1443.html)今、政治家ばかりではなく、ジャーナリストの資質が問われる時代である。(私たちも日常の会話で、問いを発しているが、その答えより、問い自体の質が問われていることを自覚しなければならない)。
<ある週刊誌からインタビューしたいという電話があった。質問をしばらく眺めながら、「こういう問いの立て方しかできないというところに日本のメディアの末期症状は露呈しているなあ」という感想を抱いた。回答がなんとなく冷たいのはそのせいである。
<1.新型コロナウイルス禍をどう見ているか?–(答え)これまでの経験をふまえて十分な感染症対策をしていた国は早い段階での感染抑制に成功し、それをしなかった国は感染拡大を防げなかった、という差が出たのだと思います。「未知」だの「新型」だのということをことさらに言い立てて病気を神秘化するのは、その事実を糊塗するためでしょう。
2、「カネか命か」という究極の問いー (答え)まさか「命よりカネが惜しい」という人はいないので、「カネも命もどちらもと欲張ると死ぬ」という経験則です。こんなことは究極の問いでもなんでもなくて、小学生でも即答できなければいけないことです。 ですから、自粛のせいで生活が立ち行かないという人に対しては政府はあれこれ言わずに十分な支援を行うべきです。
3、「命の選別」医療崩壊が発生し、限られた人工呼吸器を若者に回し高齢者を見捨てるという惨状が世界中で起きています。―(答え)医療崩壊というのは、倫理の問題である以前に「医療資源の不足」という単純で物質的な問題です。ここでも同じように、医療崩壊という黙示録的事態をもたらしたのはロジスティックスの手抜きという日常的・散文的事実であるという前段が隠蔽されています。人工呼吸器が1台しかないところに患者が2人来たら、1人は死ぬしかありません。いくら倫理的正解を求めても、正解なんかありません。そんな問題について今「どうあるべきか」なんか悩んでも、仕方がない。それより「こんなことが二度と起こらないようにするにはどうしたらいいのか」を今から考えておく方がまだしも救われる命は多くなると思います。>