哲学が苦手ということ

いつ頃から、どんなきっかけで哲学な苦手になったのかよくわからない。たまたま、哲学をきちんと学ばなかったのかかもしれない。
大学1年生の時、教養科目で受講した「倫理学」の授業(担当は佐藤俊夫教授)は、いつも二日酔いのような赤い顔で講義されていたが、内容はおもしろかった。
学部3年生の時、太田堯先生の教育哲学的な「教育学概論」の授業を必須で受講したが、学期末の試験問題が「教育とは何か」という問題で、一生懸命に書いたが、評価は「可」だったので、きっと哲学的な考察は全くできていなかったのであろう。
上智大学の教育学科に勤めていた時は、専門の教育社会学の論文だけでなく、教育哲学専攻の学生や院生の卒論や修論も副査として読まねばならず苦労した。学生や院生も哲学のことが何も分かっていない教員(私)に論文を読まれ、勝手なことを言われ、さぞ迷惑したことであろう。
「教育とは人間を人間にすることである」というフレーズが教育哲学の院生の論文にあり、「これはどういうこと?」と素朴に聞いてしまったが、嫌味の質問としてしか取られなかったように思う。

最近、社会学者の大澤真幸が、有名な哲学者のロールズの「正義論」の紹介をしている記事を読んだ(朝日新聞 10月13日)。
<自分の国籍も性別も資産も才能もわからなくなる状況で、人々はどんなルールに合意するだろうか。例えば自分が裕福なら、格差原理には賛成しないだろう。しかしそれは格差原理が正義に反しているからではなく、その人の利益に反するからだ。
正義かどうかは、自分が裕福か貧乏かわからない人が(「無知のヴェール」)、何に合意するかで決まる。>
<人は自分が所属する共同体を超える普遍性を求める。人類にとって何がよいのかを考えずにはいられないのが人間だ。>

これは、社会学の用語でいうと、個別主義(自分とのかかわり)を超えたところの普遍的な観点からの選択(政策)が、正義の原理である、とロールズは言っていると解釈できる。それなら私でも理解できる。
このように、哲学の論理を社会学的に解釈していけばいいのかもしれない。暇だし、少しずつ哲学も学んでいってみようと思うようになっている。

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