「人間が行為する場合、彼がカテゴリーは基本的に3つしかない。ひとつは、得か損かという利害で、こうすれば得あるいは損をする、したがってこれこれをするというカテゴリー。二番目は、正しいか正しくないか、よいか悪いかですね。その二つの他に「好き嫌い」のカテゴリーがある」「マックス・ウエーバーという社会学者が人間の行為の類型として<目的合理的行為><価値合理的行為><感情的行為>の三つを構成したことがあります」(作田啓一「好き嫌いの社会学」)
上記は、作田啓一の文章からの引用だが、人の行為を解釈する時は、第一に自分の利害に基づき、自分に得になることをするという<目的合理的>な見方で見るといい、と説明しているのであろう。それで解釈できない時、その人の利害を離れて、その人の価値観に基づく行為であるとみる。自分の利害を離れて行動することは、そんなに頻繁に起こるわけではない。正義の為や価値的行為のように見えて、そのホンネは自分の利益の為ということもよくある。
このように考えると、社会学は、利己的な人間を前提に、人の行為や社会の成り立ちを考えているようにも見える。ただ、そのように考えておくと、利害を離れた価値的な行為に出会ったら、もうけもの(嬉しい)と思え、人生が楽しくなる。社会学者は、利害に敏いのではなく、傷つきやすいのである。
人は、自分の利益の為に行動する自己愛の強い志向を持っているが、自己愛の程度は人によるのかもしれない。自分の利益より、家族や子どもの為、友人の為、所属する集団や組織の為、国家や地球の為に、働こうとする人、働いている人もいる。
自分の為の利己的な行動でも、他者の立場を考慮に入れた時、それは利他的を含み、利己的な意味が変わってくる。人は社会的な動物であり、利他的(他者の利益を考慮する)にならざるを得ない。
暑さの為、ボーとして(?)、人は利己的なのか、利他的なのか、という自分にはあまりふさわしくないテーマで、少し考えてみた。
知人のMさん(ほぼ同年代)より、コメントをいただいた。一部抜粋させていただく。
「利己的行動、利他的行動」を興味深く拝見しました。「三つ子の魂百まで」という諺がありますが、性格と自己規範は後天的なものよりも幼少期に形成されたような気がします。(私の場合)まず「得か損か」ですが、この考えを否定するものとして「いやしい」とか「あさましい」という言葉を教え込まれました。仏壇に供えられた菓子に手を出したり、料理がまずいと言ったりしたら厳しい叱責を受けました。「良いか悪いか」ですが、幼児の頃、近くにお寺があり、本堂に地獄絵が掛かっていました。お寺の和尚さんが私に悪い事をするとこうなるのだと教えました。地獄絵の恐怖を回避するものとして両親から幼少期には「嘘をつくな」「物を盗むな」「弱いものをいじめるな」「卑怯なことはするな」「ゴミを捨てるな」、少年期に入ってから「言い訳をするな」「卑怯なことはするな」「約束を破るな」「不正をするな」などを徹底的に仕込まれました。