人への評価について

私たちは、いろいろなところで人を評価していると思う。その評価の高低は、どこに比較の基準を置くかで違ってくるし、もう一つはどの部分を評価するかでも違ってくる。

古今東西の一番優れた人と比較すると、ほとんどの人は低い評価になってしまうのではないか。社会学でいえば例えばM.ウェバーと比較すれば、現代のどんな優れた社会学者も低い評価になるであろう。

人を評価するとき、自分と比較することも大事だと思う。自分だったらどこまでできるのかと比較して考えると、たいていの他人は自分より優れているとなるのではないのか(少なくても私の場合は)。たとえば研究者の著書や論文を評価するとき、いろいろ欠陥が目についても、自分だったらどこまで書けるだろうと思うと、その著者を高く評価せざるを得ないように思う。自分のことを棚に上げての評価はフェアではないように思う。

「ある人が優れた論者かどうかは、読み手が専門(ないし得意な分野)のことを、その人が書いている部分を読めばすぐ判定できる」というような内容の文章を読んだ記憶があるが(吉本隆明の著作だったかもしれない)、それは厳し過ぎるように思う。優れた論文や著作が1つでもあれば、その人が他に書いたものが駄作であろうと、その人の優秀さは評価すべきであろう。特に専門外のことに関しては。そんなに人は四六時中またすべての分野で優秀であることはできない。(藤原新也が教育のことで書いている文章で、その内容は稚拙だと感じたことがある。だからと言いって氏への評価を低めたわけではない)。時間や体力や気力が限られている中で、人は言い訳せず、頼まれた仕事をこなしているだけである。

(追記 上野千鶴子は、社会学者としてやジェンダー研究者としてすごい人だなと思う。それは著作などを読んだ印象(評価)からくるもので、講演や新聞記事からは少し違った印象がある。昔上智大学で行われた講演を3回ほど聞きに行ったことがあるが、そのうち2回は女性学の入門かアジテーションのような内容で、かなりがっかりした(忙しくて手抜きの講演だったのか、上智の学生や教職員を馬鹿にしているのか、と思った)。ただ後一回の上智の「社会正義研究所」の招きによる「戦争と女性」に関するシンポでの講演は学術的でとてもいいもので感心した。今回東大の入学式の上野千鶴子の講演が新聞やネットで話題になっているが、その内容を読むと、女性学や社会学のありきたりの内容しか言っていない。東大の新入生を意識の低い若者と思い、ジェンダー論をアジったとしか思えない。このような出来事を取り上げるマスコミの見識も疑われる。氏は時々「政治的な行動」をする人なのでこのようなことがおこると思うが、それで氏の学問的業績が損なわれるわけではない。(東大の入学式では、いつもは東大の総長が格式の高い話をして話題になるのに、なぜ講演を別の人(上野)に任せたのかも不思議だ)