キリスト教には、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という教えがある。
『レ・ミゼラブル』でも、銀の食器を盗まれた牧師は、盗んだジャンバルジャンにさらに銀の燭台を差し出し、それで改心したジャンバルジャンは、自分の不利も顧みず、宿敵の警視の命を助ける、というキリスト教的な感動的な場面がある。
でも、人間はなかなかこの境地に至らないのではないか。
今は亡くなられてしまったが、私が助手の頃、東大に非常勤に来ていたICUの先生が、敬虔なクリスチャンで、「自分を傷つけるような人を悪くは思わない、気の毒な人と思う」と言われ、そのような高邁な考えがあるのかと驚いたことがある。
一般に人は「自分から人を傷つけようとは思わない」(実際は知らずに人を傷つけていることはかなりあると思うが)にしても、傷つけられたことを恨みに思い、「受けた傷は、きっちりと返したい」と思うのではないか。「今は力がなく、仕返しは出来ないかもしれないが、覚えておいて、将来同じ程度の傷を負わせたい」と思うのが、一般的ではないのか。
しかし、このような心情も、時間と共に、忘れ去られことも多い。人から傷つけられ、「いつか力をつけて仕返しをするぞ」、と堅く心に誓っても、長い年月が経つうちその恨みは忘れ、さらにその人に親しみすら感じている自分を発見することがよくある。