事務的に「滞る」ことについて

効率が優先される時代で、事務的に何かが滞るというには、なるべく避けるのが好ましいと思うが、実際の日常生活では、些細な行き違い(あるいは事故や事件)が起き、滞りが生じることがよくある。その場合、そのことをマイナスに考えるのではなく、そのことによって生ずる(関係者の)修復の行動が思わないよい結果を生むとプラスに考えるべきかもしれない。

小室等著『人生を肯定するもの、それが音楽』(岩波新書、2004)の中に、小室氏*が経験したアジア国際音楽祭の際の滞った経験が綴られている。通訳が不足して出演者やスタッフの意思疎通が滞った結果、皆流暢にしゃべれるよりかえって深く、お互いを理解しようと努力し、コミュニケーション深まり、演奏のモチベーションも高まり、いい音楽祭になったというエピソードである(同書99-103頁)

日常的に起こる様々なトラブルで、それがない時のスムーズさが損なわれた故に、関係者が密なコミュニケーションを行わざるを得ず、その修復の努力の中で、自然に共同関係が生じ、お互の関係が新たな次元に進み、期待していなかった副産物も生じる場合がある。人が生きるということは、そのようなことの連続かもしれない。新型コロナ後の学会の開催や、普段使っていたテニスコートの1次閉鎖でテニスメンバーのとった代替活動で、そのことを感じた。

*小室等のことは、一時期吉田拓郎や井上揚水と一緒に作ったバンド「六文銭」のことで名前だけしか知らなかったが、今回たまたま氏の書いた交友録のような本を読んで、その柔軟な志向に感心した。ただその歌をYou Tubeで聴いてみると、(私の鑑賞力のせいかもしれないが)、あまり個性が感じられず、やはりフォークは吉田拓郎や井上揚水だなと思ってしまった。