不本意入学について

 ほしかったものが手に入らなかった時、人はどうするのであろうか。その次にほしかったもので我慢するというのが普通であろう。
 結果的に、一番ほしかったものより、二番目にほしかったものの方がよかったということもあり、人生何が幸いするかわからない。
 またこれは認知不協和の回避(実際選択したものがベストと自然に考えてしまう)やゴフマンの「クーリングアウト」の過程(失敗をうまく受容し、静かにもとの生活に戻るように状況を定義する)やブルデューの「社会的老化」(緩慢な喪の作用)で説明されるのかもしれない。(竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書、1991年、p.156-7,参照)
ただ、最初にほしかったものにいつまでもこだわる人もいるだろう。手に入らなかっただけに、一層それがよいもの、価値のあるものに思え、それが手に入れられなかった自分に自信をなくし、以後積極的な生き方が出来なくなってしまう。

 高校選びや大学選びといった選択でも、このようなことが起きる。入試に失敗して、第1志望の高校や第1志望の大学に入れず、第2、第3志望の高校や大学に入学した場合、人はどのような気持ちで学校生活、大学生活を送るのであろうか。
 「第1志望でなかったけれど、入ってみたらとてもいいところ、自分に合っていた」と学校や大学に適応・満足を示すものが多いことは、統計的にも明らかになっているが。しかし、なかには第1志望にこだわり、不本意入学で、自信をなくし、悶々とするものもいる。
 これを人生の先輩から見たら、次のように感じる。

<今回の学校社会学研究会で、高校生の「不本意」に関する発表がありましたが、この言葉は敬愛大学の学生からも聞いていました。
 価値観の多様化によってさまざまな選択ができる世の中なのに、どうして第一志望に入れなったことに拘るのか、そんな時間があったら少年・少女は、何かに熱中して欲しいと思います。人生とは所詮「不本意の連続」なのですから・・・・。中学校高校時代に柔道に熱中していた自分をなつかしく思いだしています。>(水沼文平)