マンガにリテラシー(解読能力)があるように、ミステリー(推理小説)にも、リテラシーがあるようだ。
少し前、R.チャンドラー(村上春樹訳)「ロング・グッドバイ」を途中で読むのを放棄し、今回は(水沼さんお薦めの)D.フリ―ドマン(野口百合子訳)「もう年はとれない」を何とか終わりまで読んだがかなり難儀した(後半は、面白くスピードアップしたが)
私はこれまで、ミステリーをほとんど読んだことがない。わずかに関連するものとして、エドガー・アラン・ポー、江戸川乱歩、松本清張のものを少し、読んだことがあるくらいだ。
今回のように、外国の長編のミステリーを読むのは、(翻訳でも)初めてで、登場人物の名前が覚えられず、人間関係がぐちゃぐちゃで、訳が分からなくなる。
それに、文字(文章)による心理描写が、どれが正しく、どれが間違い(うがちすぎ)なのかが、全くわからない。ミステリーでも映画やテレビの映像であれば、誰かがすぐ区別できるし、その登場人物の心理は表情(映像)に表れるのでで、解読可能である。
何か、ミステリー小説解読には、高度なリテラシーが必要のようだ。
上記に関して、水沼さんから、下記のコメントをいただいた。
<推理小説はなんらかの事件・犯罪の発生とその解決へ向けての経過を描くものですが、作者が仕掛けた「罠」を推理しながら読むのですから確かに「慣れ」が必要です。私が最も好きな推理小説はジョルジュ・シムノンの「メグレ警視」ですが、ミステリーというよりは純文学だと思っています。それにしてもソフィーの目つきがフィリップ・マーロウになっていますね。>(水沼)