民俗学に関する知識は皆無なので、いい加減な議論になるが、ハレとケの違いは日常的にいろいろなところで感じる。
時間的なことで言えば、休日(ハレ)と平日(ケ)の違いである。平日と休日は、やることも気分的にも全然違うというが多くの人の実感であろう。
ところが、職業によってこの区別のつきにくい人もいる。大学教員や作家などはその最たるものであろう。これらの職業の人は、休日も仕事を抱え、はっきりした休みがあるわけではない。本人は休日も仕事を自発的にやっているのでいいが、その配偶者はたまったものではない。「一緒に生活していて、一番ストレスが溜まるのは作家の奥さんだ」というようなことを江藤淳が書いていたような気がする(「アメリカと私」)。
空間的なことで言えば、生活する場の建物と別荘地のそれとの違いに、驚くことがある。
軽井沢の別荘地(特に旧軽)を散策して楽しいのは、そこの別荘地の建物が、普通に住んでいる地に建つ建物と違うからである。建物や庭へのお金のかけ方が、日常的に生活する場の家へのそれと全く違う気がする。別荘地のものは、贅沢と意匠を凝らしたものが多いからである。
ハレ(別荘)とケ(生活の場)では、金銭感覚が違ってはたらくのかもしれない。庶民の感覚からすれば、たまにしか行かない別荘地の家や庭に、贅沢の限りを尽くすのは割が合わない気がするが、その贅沢こそ、別荘族の誇りなのであろう。
千葉の御宿にも高台の地に、昔、西武が売り出した別荘地があり、立派な家が数多く建っている。先日そこを散歩してみて、その建物のセンスの良さに感心した。広い敷地に贅沢な建物が多く建っている。きっと、バブルの頃に、建ったものであろう。瓦は茶系のものが多く、統一がとれていて、雰囲気的には、ハワイの郊外を思わせる。
ただ、そこを歩いてみて、時代の移り変わり、今の時代も感じた。まず、人の姿をあまり見ない。車庫に車がある家が5分の1程度はあるので、住んでいる人はいると思うが、人影は少ない。わずかに出会う人は、老人ばかり。その別荘地の端に立派な老人ホームがあり、体が動けなくなったら、そこに入る予備の家に皆住んでいるように感じた。
バブルの頃、平日に猛烈に働き、その稼ぎで、この地に贅沢を尽くした別荘を建て、退職してここに住まうようになったが、その時、夢見ていた引退後の生活がこのように寂しいものであったか、という寂寥感がその地を覆っていると感じた。
今、少子高齢化の時代で、地方(田舎)から若い人がいなくなり、老人ばかりの世帯になったと言われているが、別荘地にも同じような事態が生じているのではないのか。
若者や子どものいない、老人だけの別荘地ほど、さびしいものはない。その点、軽井沢やハワイは、若者や子どもも押し寄せる数少ない、現代に生き残った別荘地のような気がする。
われわれの生活は、ハレの場や時間とケの場や時間が、両方あるのが好ましい。しかし、老後になると、そのような区別を持つことが難しい。歳をとってからの暮らし方は、難しいのである。