グラス(コップ)の容量

「グラス(コップ)には容量があり、水が一定以上に入ると溢れ出る」ということは、何にたとえられるのであろうか。

  私は、勉強量とその成果にたとえられると思っていた。たとえば、英会話の勉強をして、なかなか成果が表れなく(話せない)ても、勉強を怠らなければ、ある時、水がグラスから溢れるように、成果が出る(話せるようになる)というように。

 今日読んだ小説(重松清「家路」『送り火』文春文庫2007 収録)には、次のようなたとえがあり、思ってもいなかったことなので、感心した。

 <よほど大きなグラスの持ち主だったら死ぬまでだいじょうぶかもしれないけれど、でも、自分のグラスのサイズは誰にもわからないんだ。夫婦だって同じだよ。ウチは15年目でグラスから水があふれたってことだ。ほんと。俺が悪いとか女房が悪いとか、そんなのじゃなくて、そもそも15年しかもたないサイズのグラスだったと、うん、それだけのことなんだよな>(320)