西島氏からは、これまで書いた論文の出典とその内容に関して、補足の説明も送ってもらった(一部転載)
<論文は
「想像の『にっぽん』」『教育学年報4』(1995)世織書房,
「学校音楽はいかにして国民をつくったか」『近代日本の文化史5編成されるナショナリズム』(2002)岩波書店 です。
前者は唱歌の歌詞分析、後者は唱歌の授業実践や儀式での唱歌斉唱といった音楽行動の身体性を扱っています。
そのなかで、ネーション意識:複数の政治的共同体の中で、他者に対して自己主張するときに、たとえば公権力によって方向づけられたイデオロギーや伝統のような特徴を、ヘゲモニーとして認知的に感じ取るレベル。具体的な指標としては、制度や儀礼、伝統などが含まれる。これらは、他の政治的共同体との明確な区別のために用いられる国民一体性の意識であり、政治的共同体の主権と国境線に対する意識が内在している。
カントリー意識:人々が自分の生活している場とその中間を自然発生的な共同体とその構成員であるという意識をもつときに、言語的・領域的・文化的要因が組み合わされた生活様式の同一性を共同意識として、視覚や聴覚などを通じて感覚的に感じ取るレベル。具体的な指標としては、偶然以外には象徴的な機能をもたないルーティンに含まれる前近代的共同体の人間形成機能とその諸要素が考えられる。ここには、集団内の言語、文化的伝統、生活様式といった文化的属性が共有されているという意識が内在している。と定義していました。久しぶりに読んでみたら、くり返しも多くて、やや稚拙ですが・・・。
ちなみに、唱歌の分類として、カントリー意識だけまたはネーション意識だけに関わる内容の歌もある一方で、《ふるさと》や《我は海の子》なんかは、カントリーからネーションに展開していくんですね。
(ふるさとの場合は、うさぎ追いなどの日常生活から、こころざし・・・立身出世観へ)
(我は海の子の場合は、海辺の漁村の日常生活から、いまは歌わない後ろのほうでは軍艦を浮かべて国を守るという話になります)
政治学的にまたは社会学的に見たときの良し悪しは別として、そういうふうにつなぐことによってバランスが維持されていた部分があると思うのですが、戦後日本は、社会統合を意識的にしなければ国はまとまらないということに対する認識が、政治の世界ではもちろん、学術の世界でも、他の国々に比べて、薄かったと思います。
認識が薄かったということと、実態として、潜在的にどこかで何かが機能してくれていたということは別です。
藤原さんの問題提起は、水俣の頃は潜在的にどこかで何かが機能してくれていたことのうち、今回は、カントリーの部分が壊れちゃったじゃないか、失われちゃったじゃないか、にもかかわらず、その状況で、ネーションばかり強調する政治をしていて、この国は、この国に住む人たちはどうなっちゃうんだろう・・・という、国民国家としての危機を迎えていることに自覚があるのか、ということだったのではないかと思います。
《ふるさと》ブームは、新聞記事で書いていただいたように、一般の人々のレベルでは、被災地とは違うところ(具体的には関西のほうとか)にカントリーを感じていた人々に、
「いや、あなたのカントリーの延長に、同じネーションにいるあの人たちのカントリーがあるじゃないか」ということを思いを至らせる役割を果たしました。僕は、そのことは高く評価しているし、震災以前からこの実践をしていた者としては、やっとこの歌を評価してくれるときがきたか、という思いもあります。
しかし、そうであれば、次は、ではあの人たちのカントリーってなんだろう、ということに思いがいかなきゃいけないと思うのです。ところが、現実に起きていることはそうではない。それは、もしかすると、ネーションに飲み込まれてしまって、いまはどこにもない(と言い切るには、まだまだ日本にもうさぎ追いや小鮒釣りに近い光景はたくさん残っていると思いますけれど・・・)
《ふるさと》に描かれるカントリーを共同幻想のように共有してしまっているからではないか、と思うのです。
でも、我々が、ネーションの面で政治的社会的にはさまざまな考え方をもっているにもかかわらず、1つの国民国家としてまとまっていられるのは、どこかでカントリーは一緒だという思いがあるからです。まだネーションに飲み込まれた《ふるさと》でなんとかつなぎ止めていられるうちはいい。
しかし、もしいまの週末の首相官邸前のデモにしても、福島の人たちにしても、ひょんなきっかけから、その箍が外れてしまったとき、1つの現れは、、別々のカントリーを希求する動きや、そんなことが起きたりするのではないか、と僕は強く強く心配しているのです。
この《ふるさと》の続きを作る実践は、(ちなみに、本当は授業では《ふるさと》の4番を作る、というネーミングでやっています)震災より前からやっていますが、それは、上述したようなカントリーの共有状況に前々からなんとなく危惧を抱いていたからです。
(最近の音楽の教科書は、まったくふわふわした毒のない夢やら何やらをテーマにしたものばかりで、文化人類学的に歌のもつ機能を、意識してか無意識かはわかりませんが、放棄しているように思うのです。)
そこで、《ふるさと》を含めていろいろな歌を紹介し、自ら歌詞づくりをしてみることを通して、自分のカントリーを意識し直してみよう、というのが、本来の授業の狙いでした。
ただ、一気にこんなことになるとは思っていなかったので、ここ数年、学術的には、もう少し現実味のある部活・・・甲子園なども、ネーションのほうからカントリーへとつながっていく仕掛けの1つだなあと思っていますが・・・を通して、社会のまとまりのことを考えようとしていたのでした。
すっかり長くなりましたが、長くなりついでにもう一つ、よく授業で使うのですけれど、 世界の国歌の歌詞を見ていくと、その国の成り立ちと歌詞のカントリー的な内容やネーション的な内容の扱いとが、意外と相関しているように思えてきます。
学術的に厳密さを問えば、もっときちんとつめなければいけないところもあるでしょうが 小ネタ的には・・・学部学生向けに1コマ分くらいのお話としては・・・、多様な国のあり方を学ぶいいきっかけになると思っています。