カズオ・イシグロ『浮世の画家』を読む

カズオ・イシグロ『浮世の画家』(AN ARTIST OF FLOATING WORLD)(早川書房2006年)を読んだ。
イシグロの初期の作品で、舞台は日本の戦後で、主人公は戦前に名声を博した画家。比較的読みやすい内容。
ただ、戦前に戦意高揚に加担するような絵を書いたのではないかという主人公の自己阿責が主要なテーマで、出版当時のイギリスでは受けたかもしれないが、今の日本で読むと、そのような戦争責任論*は、今の時代のテーマではなく、少し、退屈。
「訳者(飛田茂雄)あとがき」が、ポイントを的確に掴んで書かれていて感心した(308〜309頁参照)。

「読書メーター」(https://bookmeter.com/books/424692 )より、比較的自分の感想に近いものを、転載する。

太平洋戦争の最中、国威をあげるために働いたと思われる画家の、戦後の生活の中で、自己批判というか、自己憐憫を思わせる心の揺れ。人は、時代の流れに簡単に揺り動かされる

客観的な描写が無くて、本当はどうなの?と最後までモヤモヤしてしまう。いつも、カズオイシグロの作品はこんなんですよね。 敗戦で、価値観が変わってしまった中で自分の過去をどう正当化すればいいのか悩んだり、周りに対してどういう態度をとればいいか迷ったり…でも、まわりはそんなに彼を意識してない?いたたまれない気分になる。

父、師匠からの独立。子供と弟子との精神的・物理的離別。浮世絵だけやっていたため、時勢に流された。自説と時説の混同。@挫折を味わった老人の独善、自己呵責、その克服と、新しい前向きの人生の探究という、内面的葛藤のドラマをみごとに描ききった。

現在進行中の話に、過去の出来事が交錯し、登場人物のキャラや関係がわかってくる。「遠い山なみの光」と同様、戦争前後のパラダイムシフトが大きく影響していて、人々(特に主人公)の逡巡が見て取れる。何があったか、何が原因でこうなったのか、など細かい理由は語られておらず、読者の想像に任されている。父親と娘、という設定が小津映画を髣髴とさせるが、藤田嗣治が戦争をモチーフにした絵画を作成したことも思い出したりした。過去の自分を正当化するのも否定するのも、どちらも辛いだろう…。

滑稽にすら思えるほどの「時代エゴイスト」の語り手。やるせないカタルシス。外から見た敗戦国ニッポン。井の中の蛙はいつも落とし所を用意してもがき苦しむ。シニカルで滑稽で。久しぶりに好もしい作品に出会った。

カズオ・イシグロの自己欺瞞に対する厳しさと優しさはこのデビュー作から一貫している。

*古い世代にとっては、この問題は、大きいのであろう。9月23日の朝日新聞には、次のような声が載っている。
< 東京・上野の東京都美術館で「没後50年 藤田嗣治展」を見た。乳白色の裸婦は日本的感性を西洋画で表現したものに見え、近代日本の苦悩と重なる。
 戦中に描かれた「アッツ島玉砕」の前で、若いカップルが「戦意高揚にならないね」と話していた。いま見れば、悲惨さに圧倒され反戦画にも見えてしまう。でも、あの時代は違った。画面から立ち上る悲壮さに「がんばろう」と覚悟した。藤田が渾身(こんしん)の力で国のために描いた作品だ。
 私は少年だったが、当時の雰囲気はよく分かる。国民は一方向に引っ張られ、合理的な判断はできなかった。大本営発表に象徴されるウソの情報で判断力が奪われた。この反省の上に戦後はあると思っていたが、最近の指導者たちの言動には驚くことも多い。
 先日、テレビで藤田晩年の肉声を聞き、歯切れいい日本語に胸がいっぱいになった。戦後、国策協力を批判されて日本を去り、仏国籍を取得した天才画家の大回顧展に思うことは多い。無職 市東和夫(千葉県 87)>